譲れないもの

「――越前」

 呼ばれてリョーマは振り返った。
 ここは、一年の教室のある階で、3年が来ることは珍しい。
 移動教室から帰って来たところで、リョーマは背後にいた大石に向かって頭を下げた。

「何スか? 大石先輩」
「ああ、ほら。これ……取り敢えずの分だけだけど、持って来たから――」
 B5サイズの茶封筒を差し出されて、リョーマは相好を崩した。
「ども。サンキューッス」
「ああ、返す必要ないからな」
「え? そうなんすか?」
「ああ。折角だし、越前にやるよ」

 大石の言葉に、リョーマは本当に嬉しそうに笑って、その茶封筒を、大事そうに抱き締めた。

「じゃあ、また部活でな」
「……ッス。わざわざ、ありがとう、ございました」
 珍しく、素直に礼を言うと、大石は微笑を浮かべて、リョーマの頭を軽く撫でて。

 リョーマは基本的にスキンシップは苦手である。
 あまりに、ベタベタと触られることを、好まない。
 だけど、大石に頭を撫でられるのは、嫌いではなかった。
 あの人に、抱き締められるのと……比較にはならないが、それでも。
 嫌ではなかったのである。


 大石は、そのまま踵を返して、3年の教室のある階に向かい、リョーマも、自分の教室に向かって歩き出した。

 その光景を……。
 反対側の廊下から、英二が茫然と見つめていたことを、リョーマも大石も知らなかった。










     ☆  ☆  ☆


「……エージ先輩?」
 放課後。
 部室に入ると、英二が着替えもせずに、ボーッとベンチに座っていた。
 一年や二年の大半は、既にコートに出ている。
 リョーマは、声をかけたものの、反応のない英二に首を傾げて、もう一度声をかけた。

「エージ先輩?」
「へっ?」
 ハッとしたように、視線を向けて来て、リョーマの方が面食らった。
 あまりにも、辛そうな表情をして、自分を見つめて来る英二に、リョーマは困惑したように声をかける。
「どうしたんスか?」
「――リョーマ……」
「……? 何スか?」
 部活の時には、滅多に呼ばれることがない、名前にドキッとしつつ、リョーマはロッカーに荷物を入れて、英二を見返った。

「ん……今日さ……」
「?」
 どこか歯切れの悪い英二に、リョーマはさらに首を傾げて訝しげな視線を向ける。
「着替え……した方が良いんじゃない? もう、部活、始まるっすよ?」
 リョーマは、そう言って、先に着替えを始める。
「エージ先輩?」
「……さ、最近……」

 やっと、何かを言おうと口を開いたその時。
 ドアが開いて、桃城と大石が話をしながら、部室に入って来た。

「チィーッス! 英二先輩」
「よう」
「――」

 英二は二人が入って来た時点で言葉を切り、リョーマは着替えを終えて、帽子を片手に頭を下げていた。
 じっと――英二が大石に視線を向けていることに、リョーマは気付き、さらに不審を感じて眉を顰めた。

「ゆっくりしてて良いのか? 越前」
 大石に声をかけられて、リョーマはハッとしたように、そちらに視線を向けて。
「準備、もう、みんな始めてたぞ?」
「……そっすね」
 レギュラーとは言え、一年である以上、練習の準備もしなくてはならない。
 
 リョーマは普段とかけ離れた英二を、気にしながらも。
 そのまま部室を出て、コートに向おうとした。

 と、何かに足を取られたような感覚に、バランスを崩して、リョーマは前のめりに転びかけた。
「あぶ……」
 動こうとした英二の目の前で、先に動いたのは、大石だった。

「大丈夫か? 越前」
「……ども……」
「靴紐、解けてるぞ」
「……あ、ホントだ」

 指摘されて、リョーマはしゃがんで、靴紐を結び直し、ラケットを片手に、今度こそ部室を出ようとドアに向った。

「大石先輩、サンキューっす」

 ドアを開けながら、リョーマはそう言って出て行く。





「……」

 自分よりも、大石はリョーマの近くに居た。
 彼の性格上、リョーマが転びそうになれば、手を伸ばすのは当然で。
 いや、他の誰でも……。
 自分の目の前で、転びかけたら、支えるために手を伸ばすだろう。

 だから、別に特別でもない。
 何でもない……当たり前な光景なのだ。

 でも……。

 リョーマを見る、大石の目は……自分と同じ。

 
気付いてしまった。

 親友で、ずっと信頼し、自分を理解してくれているパートナーの。

 
その気持ちに――



 相手が自分を理解してくれているように、自分も相手を理解している。

 
だから……判ってしまったのだ。







「英二? 着替えないのか?」
 不思議そうに問い掛けられて、英二はハッとしたように、視線を逸らした。
「……ああ、着替えるよ」
 どこか元気のない英二の様子に、桃城も不思議そうに声をかけて来る。
「どうしたんスか? 英二先輩の元気、なかったら、こっちも調子狂うっすよ?」
「……そ、かな?」
「そーっすよ。どっか、具合とか悪いんスか?」
「そう言えば、ちょっと顔色、悪いな。保健室行って来た方が良くないか?」
「――んー、大丈夫大丈夫。ごめん、心配かけて……」

 英二は、そう言って笑った。




 笑ったはずだった。







「英二……?」
「……英二先輩……?」


 困惑したような……二人の声に。
 英二も困惑して。

 その目から一滴だけ、熱いものが零れ落ちた。

「あれ? ……なんで、これ……?」


 零れた涙に英二自身が驚き、さらに戸惑ったように、首を振った。










 いつだって、完璧に演技して来たよ?
 泣きたい時でも、辛いことがあっても、何とか笑って、周り誤魔化して。
 ヤなこととか、腹立つことあった時は、そのまま、それが表面に出てたけど。
 でも、悲しいことや泣きたいようなことや、辛いこと……基準がどこか、判らないけど。
 でも、それでも誤魔化して来たんだ。

 笑って笑って笑って、時には、わざと怒って、不機嫌のオーラを撒き散らして。
 笑ってるか、怒ってるか。
 気分屋なんて呼ばれて、その通りに演じて来たんだ。


 今までは、十分演じていられたのに。

 リョーマに会ってから、演技が旨く行かない。



 リョーマの一挙手一投足が気になって、リョーマの言動に一喜一憂する。


 辛くても悲しくても、笑えた自分はどこに行ったんだろう?
 せめて、不機嫌になってムカついて、腹立てて、怒れれば良いのに。
 笑えない時は――そうしてた。



 怒りと笑顔だけを晒して。

 辛さと悲しみは――表に出したくなかった。

 だって同情されたくないから。
 オレの本当の気持ちなんて、誰にも判らないから……。


 慰められるのは、憐れまれてるようで。
 同情されるのは、見下されてるようで。
 可哀想なんて思われたくないから!!

 なのに、今……辛くて苦しくて……死にそうなくらい、悲しくて――


 同情するなよ。
 憐れまれるのは、イヤなんだから。









「……う……っ」
「英二?」
「……ごめ……一人にして……。頼む……」
「……判った」

 大石と桃城は、ウェアに着替えて、そのまま部室を出て行った。
 入れ違いに。




 リョーマが入って来て、ロッカーに凭れかかっている英二に向かって問い掛けた。








「何で、一人で泣くんですか?」
「……!!」
「ラケット、間違えたんで取り替えに来たんスけど……」
「……ねえ」
「なんスか?」
「……おチビは……大石のこと……好きなの?」
「――? そりゃ、好きッスね」
「……」






 
苦しくて息が出来ない。
 胸が痛くて立ってられない。
 どうして。
 何で、こんなにボロボロになってるのさ?











「エージだって、好きでしょ?」
「……!」
「エージの好きと、オレの好き……きっと微妙に違うと思うけど、根本は一緒だと思うけど?」

 リョーマの言葉に、茫然となりつつ、少しだけ胸の痛みが取れたような気がした。

「……大石と、何を話してたの?」
「……いつのことですか?」
「今日……休み時間に。何か、大石に貰ってただろ?」
「……ああ、見てたンすか?」
 そう言って、少しだけリョーマが頬を赤らめた。
「嬉しそうに……笑ってた。オレ以外にも……あんな笑顔……見せて……。何か胸が痛くて……辛くて……」
「――」
「でも、大石は親友だし、パートナーだし。リョーマと何かした訳じゃないし。ただ、会って話をしただけで、こんなに辛くなることないって、判ってるんだ」
「――エージ」
「でも……親友だから! 余計に気になって……!! リョーマに何を渡したのか……。リョーマはなんで、あんなに嬉しそうだったのか……!」
「なら、聞けば良いのに……」
「でも! そんなの、オレに聞く権利ないじゃん!!」
「――」
「桃や不二みたいに、はっきり気持ちを聞いてたら、手を出すなとか言えるけど。でも、ただ、先輩と後輩として接してるのに、オレ……口出すこと出来ないよ……」









 
大石は意思表示をしていない。
 好きだなんて告げてない。
 口に出さず、きっとずっとその想いを秘めて、これからも過ごすつもりで。


 大石だって、辛い想いを抱えている。
 友情と恋情の板ばさみで、辛いのはオレだけじゃない。



 
でも……そんな大石をズルイと思ってしまう。
 言ってくれれば良いのに。
 そうすれば、「これだけは譲れない」って言えるのに。
 言ってくれない、大石に……苛立ってしまう。
 悲しくなる。
 苦しくなる。

 自分が楽になりたくて、勝手に大石にそんなことを押し付けて。





 でも。






 それ以上に。







 何よりも、怖いのは……









「リョーマが……!
 リョーマの気持ちが、大石に向いたらって……大石は良い奴だし、オレよりずっと……気が付いて優しくて……。嬉しそうな表情してるおチビ見てたら……怖くなって……!!」

 零れ出た不安。
 こんなこと言えば、きっとリョーマは呆れる。
 嫌われるかも知れない。
 鬱陶しいと思われるかも知れない……。









「バカエージ」
「……」
 リョーマの声に、びくんと肩が揺れた。
「恥ずかしいから、黙ってたのに……」
 リョーマはそう言って、自分のロッカーを開けて、中からラケット取り出し交換すると、カバンの中から茶封筒を取り出した。

「大石先輩に貰ったもの。中見ても良いよ」
 ちょっと分厚い。
 まるで本が入っているような――それを、渡されて、英二は不安な表情のままリョーマを見つめた。
「見たら、ロッカーに戻しといて下さいね」
 と告げて、部室を出て行った。


 ドアが閉まり、静寂が訪れて。
 そっと、英二は封筒の中から、それを取り出した。

「アルバム?」


 それは英二も持っている、二年の時の写真だった。
 律儀に、4月から、順に並んでいる。
 その横のテキスト覧には、大石の字で写真の説明が書かれていた。

【4月○日】
校内ランキング戦開始 不二のカメラで



 写ってるのは、大石と英二、それに乾と当時の3年生。
 懐かしいと、思わず目を細めて。

【4月×日】
ランキング戦終了 無事、レギュラー入り達成


 Vサインで、満面で笑顔で写っている自分の姿。

 体育祭や、夏季合宿。全国大会に行った時の写真もあって。
 文化祭に、修学旅行。

 全てに、自分が写っていた。

 ひらりと、メモ用紙が落ちて、英二はそれを拾い上げる。



【一年の時のは、もう少し待ってくれ。一年の時の英二は、無茶苦茶可愛いぞ。身長も越前と同じくらいだったからな】





 そう書かれたメモ用紙。

「……余計なこと……書いてんじゃ……」

 ポタポタと。
 滴が落ちた。

「……ごめ……大石……」



 きっとリョーマが頼んだのだろうと思う。
 どう言う経緯で、昔の写真を見たがったか、判らない。
 どう言う話を、その時にしたのかも。


 だけど……二人が考えていたのは、英二のこと。

 英二の昔を見たがったリョーマと、それを見せることでリョーマに喜んで貰いたいと思った大石と。
 その間にあったのは、自分の存在――



 英二はアルバムを封筒に戻して、リョーマのロッカーに戻して、服を着替えた。
 頬を両手で叩いて、部室を出る。

(今日の帰り、大石とおチビに何か奢ろう……)

 そんなことを考えながら、コートに向かい、既に始まっていた練習に参加した。
 多分、大石が手塚に言ってくれたのだろう。
 特別にランニングを言い渡されることもなく、ストレッチをした後、自分で校庭に走りに向った。




   ☆  ☆  ☆


「ね! 帰り、付き合ってくれない?」
 大石とリョーマに向かって、英二が声をかけると。
 二人は、驚いたように目を瞠って、互いの顔を見合わせた。
「いや、オレは……」
 遠慮しようとする大石に、リョーマはわざとらしく溜息をついて見せて。
「今日は、オレが遠慮しますよ。大石先輩」
「……え?」
「――と言うことで、エージ先輩」
「……何?」
「用事済ませたら、オレの家に来て下さいね」
 テニスバックを肩に担ぎながら、リョーマは言うと、にんまり笑ってドアを開けた。
「どう言う意味だ? 越前。英二?」
 一人、訳の判ってない大石をそのままに、英二は口の中でリョーマに向かって言っていた。

『アリガト、リョーマ』





「ったく……まだまだだね、エージ」
 小さく呟き、ふと前方を歩いていた桃城を見て、「そうだ」と、駆け出す。
「桃先輩、送ってくれません?」
「……んぁ? 英二先輩は?」
「――今頃、大石先輩と友情の再確認してますんで……」
「――はあ? 何だそりゃ?」
「乗せてって下さい。早く家に帰りたいんで……」
「……ちぇ、そう言うことかよ。ったく、しょうがねえなあ!」

 桃城の言葉に、リョーマは笑った。
 今日は早く帰って、英二が来るのを待っていよう。
 きっと、晴れやかな表情で、訪ねて来てくれるから。
 そうしたら、一緒にデザート食べて、ゲームして……。

 自転車置き場から、自転車に乗ってきた桃城の……後ろに軽々と立ち乗りして、リョーマは帰途についた。








「大石……ごめん」
「何が?」
「……ん。色々――」
「……変な奴だな……」

 久しぶりに並んで帰りながら、英二は小さく呟くように言った。

「……ね。大石……おチビのこと、好きっしょ?」
「……! 英二?」
「もろバレ。隠しても無駄だよん」
「……」
「……でもね。これだけは、譲れないから……」

 譲りたくないから……。


「――ああ、そうだな。判ってるよ」
 どう答えようか迷った末に、諦めたように、大石は頷いて言った。

「……言えなくて、辛かった、よね?」
「そうでもないかな。オレは英二のことも好きだし、仲良い二人を見てるのは、イヤじゃなかった……」
「そうなの?」
「――ああ。だから、そんなに気にするほどのことは、ないんだ。英二……」
「――でも」
「英二。取り敢えず、越前が幸せなら……オレはそれで良いから。もちろん……お前もだけどな。越前が……泣いてなければ、それで良い」
「……ん。判ってる」
「そうだな」


 これ以上はもう、何も言えない。
 大石がそう言うなら、それで納得するしかないのだ。




 大石にラーメンを奢って、今日のことを話し、謝罪する。
 面食らっていた大石は、次には苦笑を浮かべて、英二の頭を軽く叩いて、一言だけ、バカだなと呟いた。

「じゃあな〜おやすみぃ! 大石〜」
「ああ、お休み、英二」


 大石と別れて、英二は歩き出す。
 スッカリ日の暮れた町を、リョーマの家に向かって。




 インターホンを押すと、リョーマの声で返事が返って来た。
「オレ、英二!」
『――開いてますから、勝手に入って来て良いっすよ』
 リョーマの声に、門を開けて、玄関に入り、元気に声をかけた。
「お邪魔しまーす!」
 二階から、下りて来たリョーマが、軽く笑って英二を迎えて。
「……いらっしゃい、エージ」
 そんなリョーマに英二も笑って、そっと腕の中に抱き締めた。


「……好きだよ……リョーマ」
「うん。オレもエージが好き……」




 でもさあ、写真ならオレが上げたのに……。
 だって、直接写真欲しいなんて、言える訳ないし。
 そうなの?
 貰うつもりなかったし。借りるだけだったのに、大石先輩がくれるって言うから。
 ふーん……。

 ねえ、何むくれてんの?
 べ、別にむくれてないよ?
 じゃあ、拗ねてんだ?
 拗ねてもない!
 ふーん。
 な、何だよ? おチビ……



 ねえ、機嫌……直った?
 ……(ぱくぱく;;;;;)
 まだ、直んないの? ねえ、エージ?
 直った……って、別に機嫌悪くなかったんだけど;;
 嘘ばっか
 ……(バレバレだっての;;) うう……リョーマには勝てません;;;;
 ……当たり前(ニッコリ)


 リョーマの唇が触れた頬を、抑えたまま、最強無比な恋人に――
 英二は安らかで暖かな笑顔を向けていた。



<Fin>

☆あとがき☆
……暫く姿を晦まします。
捜さないで下さい(−−)