湿っぽい空気まで夕日に染まって、世界はシャンパンの瓶の中。 ふと視界の端をとんだ蝙蝠に目を上げると、街頭の明かりが点く。そんな夕暮れ。 自転車で走ればあっというまの道なのに、歩くとひどく長いなとリョーマは思った。 ふと立ち止まると、通いなれた通学路が異国になる。 |
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『きんいろ』 作:紅さま |
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「……バカらし」 あえて口に出して呟いて、リョーマはふたたび歩き出す。 道の横を歩いていく生徒の数は意外と多い。部活の終わった生徒達が帰る時間だからだろう。 みちゆく人数そのものは多いけれど、知っている顔は一つも無い。 リョーマが一人で家に帰るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。 それもこれも、桃城のいいだしたことのせいだ。 『わりィ越前、オレ、今日用事ができちまって』 『いいっスよ、別に』 だって、菊丸センパイと一緒に帰りたいんでしょう。 わざわざそう口に出す理由も無かったので言わなかったが、一目で分かるほどあきらかなことだった。 そもそも行き帰りの送り迎えだって、桃城が先に言い出したことだ。 リョーマが口出しをする筋合いは無い。 ないのだが、この釈然としない気持ちはいったいどういうことなのだろう。 そもそも、去年から菊丸は桃城のことを可愛がっていたのだという。 元々弟妹のいない菊丸は、『お兄ちゃん』という立場にあこがれて年下にちょっかいを出したがる傾向がある。 明るくて遊び好きな菊丸にとって、同じく明るくて騒ぎ好きな後輩を弟のように思っていたのだろう。 その後輩が大きく成長したということが、ダブルスを組んで実感できたということ。 嬉しいのだろうなと考えるが、リョーマにはよくわからない。 面倒を見てくれていた先輩に追いつけるほど、自分が強くなったと実感できたということ。 嬉しいのだろうなと考えたが、同じくらいよくわからない。 一体、自分は桃城を菊丸にとられたのがくやしいのか、菊丸を桃城にとられたからくやしいのか。 そんなことすら考えてしまう自分が一番ムカつくのだということは、あまりに明白なのだけれど。 正体不明のもやもやの処理にリョーマは困る。 家に帰ってカルピンと遊ぶか、いっそストリートテニスにでもよって帰るか。 後者は不可だ。 うっかり知り合いに会いでもしたら、どうして一人なのかと聞かれるに決まっている。 ……考えているうちに、リョーマはイライラしてきた。 ほんのすこしたてば、こんな気持ちは忘れるだろう。 自分はそういう人間だ。 なのに、そのたった一瞬のイライラに翻弄されている自分は一体なんなのだろう。 とりあえず、ファンタでも飲んで帰ろう。 そう決めて、帰り道から一歩はずれるわき道に曲がる。 青学生御用達、100円ジュースの自動販売機のあるところ。 地面を睨むようにして角を曲がったリョーマは、声をかけられるまで先客に気づかなかった。 「あれ、越前じゃないか」 誰もいないだろうと思っていたので、名前を呼ばれて驚いた。 自動販売機の前には、テニスバックを肩から提げた男子生徒が一人。 「……大石センパイ」 うっかり驚いた顔をしたのをこの柔和な眼に見られた。 リョーマはひどく決まりの悪い思いをする。 黙ったままの後輩に優しく微笑って、大石は自動販売機にコインを追加した。 「調度良い。越前も、何か飲むか?」 ガコン。 受け取り口に飲み物の落ちる音が、やけに大きく聞こえた。 「よくこの場所を知ってたな。ここは結構穴場だと思ってたんだけど」 「……センパイに教えてもらったんで」 穴場だと教えてくれたのは菊丸だったか桃城だったかと、余計な記憶がどこまでもついてくるのに辟易する。 大石は缶コーヒーを受け取り口から取り出して、リョーマのとなりに腰掛けた。 大石におごられたファンタをあけもせず、リョーマは黙って座っている。 建物と建物のあいだにある、細い裏道。 青春台駅までの近道ではあるのだが、分かりにくい場所にあるのでつかう生徒は少ない。 穴場といわれる所以だ。 雑居ビル薄汚れた階段にすわると、建物のすきまに金色の夕焼けが見えた。 「今日は一人なのか」 「桃センパイなら、菊丸センパイとどっかに行きました。副部長こそなんでこんなとこにいるんスか」 追求されるのがいやで、リョーマは早口に言う。 「怪我人なんだから早く帰れって、手塚に練習からおいだされてしまってね。でも、どうにも帰りづらくって」 大石は微苦笑をうかべて腕に触れた。袖口からのぞく白い包帯から、リョーマは目をそらした。 「なんとなく図書室から練習を見ていたら、こんな時間になっちゃって」 「だから部長から隠れてこんなとこでコソコソしてるんスか」 「辛口だなあ」 憎まれ口をきかれても、大石は苦笑いをするだけだ。 怒ればいいのに。 リョーマは目を伏せた。 この人は少し苦手だった。 あまりに自分と違いすぎて、何を考えているのか分からない。 出られるはずの試合にでられなくなったり、ダブルスのパートナーを後輩にとられたり。 怒り苛立って当然の場面で、このひとはいつもさらさらと綺麗に笑って見せる。 そうして『がんばれよ』とだけ声をかけて、あとは静かに黙っているのだ。 聖人君子のような人間など、いるわけがない。まして自分も大石もまだ中学生だというのに。 一体何を考えているのだろう。 リョーマは汗をかいた缶ジュースを握り締めたまま、口をひきむすんで大石の顔をにらんだ。 「……どうしたんだ、越前?」 気遣うような言葉に、頭の芯が灼熱した。 「大石センパイって、偽善者だよね」 大石は黙って、ほんの少し首をかしげる。 その表情がますます癇に触れて、リョーマは一瞬、血が出そうなほど唇をかむ。 「なんでいつも笑ってるわけ。怒ったり嫉妬したりしないわけ。今日ずっと学校に残ってたのだって、菊丸センパイを桃センパイにとられるんじゃないかって思ったんじゃないの? レギュラーに選ばれたのは自分だったのに、試合にでらんなかったのが悔しかったんじゃないの。その癖、涼しい顔してみせたりしてさ」 撒き散らすようにまくしたてながら、リョーマは爪が白くなるほどに指を握り締めていた。 頭のどこか、冷静なところが、自分をあざ笑うのを感じていた。 これはすべて自分のことだ。 菊丸や桃城や大石に、汚い嫉妬を感じている自分を罵倒しているのだ。 息が切れるまで汚い言葉を吐き続けたリョーマは、また唐突に黙り込んだ。 きつく握りすぎた拳を膝に押し付けて、リョーマはぎゅっと俯いた。 長い前髪が横顔を隠して、大石の視線をさえぎった。 返事はずっと返ってこなかった。 ようや大石をく怒らせることが出来た、と、ひどく暗い満足を感じて。 けれど。 ぽん、と軽く、頭に手を載せられた。 「……ああ、そうだな。ごめん、越前」 リョーマは目を見開いた。 弾かれたように顔を上げると、大石はやはり柔らかい表情を浮かべていた。 すこし傷ついたような表情がその目にあって、けれど、怒りの色はどこにもない。 かすれた声で、リョーマは言った。 「なんで、怒らないの」 「怒るも何も」 大石は寂しく笑った。 「全部、言われた通りだからな。反論のしようもない」 「だって……」 「お前は聡いなあ」 ぽつんと大石の呟いた言葉に、リョーマは何もいえなくなった。 「そうなんだ。英二がどうしているかとか考えたら、どうも複雑な気分で、おとなしく家に帰る気にはなれなかった。どうして自分はこんなに未練がましいんだろうとおもったら、どうにも情けなくってしかたがなくって」 「……そんな」 「そうなんだよ」 リョーマの柔らかい髪をなでながら、大石は夕空を見上げた。 「去年一年、英二と組むようになってから本当に苦労したなあ、とか、桃は本当に小さかったなあ、とか、ずっとそんな事ばっかり思い出してるんだ。ずっと強くなるために努力していたつもりが、すこし昔のことを思い出したら後悔ばっかりのような気がして来るんだ。もっと早くに、英二と桃にダブルスを組ませておいたりとかね」 凍りついたように動けなかったリョーマは、最後の言葉で急に我に帰る。 リョーマは鋭く叫んだ。 「そん……な、こと言うな!」 大石はおどろいたようにリョーマの方を見た。 猫のようなアーモンド形をした目が、夕日をうつして強く光る。 リョーマは乱暴に大石の手を振り払った。 「何ソレ。それじゃあアンタたちがやってきたことが全部無駄だって言ってるみたいなもんじゃん。アンタが菊丸センパイと練習してきたことも、試合にでたことも、部長やみんなが信頼したことも、全部無駄で無意味でしたって言いたいわけ?」 興奮したせいなのか、視界が潤んでゆるりと霞んだ。 感情に歯止めが利かなかった。 視界を澄ませようと瞬きをするたび、目のまわりが熱くなる。 涙が頬に一滴こぼれた瞬間、リョーマはようやく我に返った。 「……スンマセン」 大石のそばから身を引き離し、リョーマは拳で目をこすった。 大石はあっけにとられたような顔でそんなリョーマを見下ろした。 その表情が、やがてふっと緩む。 「……越前も、そういうふうに熱くなることがあるんだなあ」 「スンマセン」 「謝ることじゃあ無いだろう」 しつこく目をこすり続けようとした手を、大石がそっと掴んだ。 リョーマはきっと大石を睨んだが、いつまでも気力が続かなかった。 片方の瞳からだけ涙がこぼれ、止まらない。 やがて体からふっと力が抜け、リョーマは自分の膝の上に蹲った。 「越前は本当に聡いな。ここまで言われるとは思ってなかった」 「……ハイ」 「おかしいな。同じときに同じようなことを考えて、同じようなところに来てたんだ」 「……ハイ」 「本当に、おかしいな」 胸の中で色々な気持ちが溶鉱炉のように融けていた。 怒り、悲しみ、寂しさ、自己嫌悪、嫉妬、理解のできない色々な感情。 誰を誰にとられるのが悔しいのか、誰のことを憎んでいるのか、はっきりしない自分も。 全てが、優しく背中をなでる指に溶かされてゆく。 「どうして」 「ん?」 「どうして、大石先輩は、そんなに静かでいられるわけ」 ふと、大石の指がつかまれる。 リョーマは半身をおこし、まっすぐに大石をみつめた。 真っ赤になった目でうったえるリョーマに、大石はすこし困った顔をした。 「……さあ。越前の言うとおり、偽善者だからじゃないかな」 「ウソツキ」 指をつかむ自分の手に、迷子の子供めいた必死の力が込められているのをリョーマは感じた。 それでもいい、とリョーマは思った。 強い自分もプライドもすべて、この指に溶かされてしまったのだから。 自分じゃない自分になる。 このひとの前でだけ、わがままでさみしがりの、どうしようもない子供になる。 大石はふっと微笑った。 「そうだな。じゃあ、きっと越前よりも年上だからだ」 友人達とすごした時間が自分の中に積もって満ちれば、すこしのことでは揺るがなくなる。 どんな出来事も、水のように目の前を流れていってしまうと分かれば、悲しいこともきっと無くなる――― 「越前も、もうすこし大きくなったらわかるようになるよ」 なだめるような言葉を打ち消すように、リョーマは呟いた。 「……大きくなんて、ならなくてもいい」 膝から温くなった缶が落ちた。 リョーマは嫌々をするように首を振り、つながったままの指に頬を寄せた。 大石が戸惑ったように目をまたたくのにも構わずに、手指に強い力を込めた。 たった2歳ちがうだけで、このひとを理解できない自分がいる。 きっと明日になれば、こんなことはできない自分に戻っているだろう。 さらにその次の日には、今の瞬間を恥じている自分がいるだろう。 そしてもっと長い時がすぎたときには、憎くて愛しい人たちは、皆自分の前から消えているだろう。 強くなった自分は、今の自分を思い出しても、理解することはできないだろう――― 「ここにいてください」 細い懇願に、大石の指が戸惑った。 けれどすぐに、優しく握り返す力が帰ってきた。 大石は自分の肩にリョーマの頭をもたせかけさせ、きつく絡んだ指にもう片方の手を重ねた。 そうして、くれてゆく夕日を見上げた。 時間をとめて。 時間をとめて。 今の私、今のあなた。 ここから逃げていかないで。 星がひとつ輝き始めた。 もう夕空から金色が消え、かわりに夜がひろがりはじめた。 |
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☆謝辞☆ 貰ってしまいました!! 大リョです! 微妙に、大菊、桃リョ、桃菊入ってますが(^^ゞ でも、メインは大石×リョーマです! 原作とシンクロするお話で、関東大会の後日です。 ダブルスを組んで、試合を制したことで、より一層、桃城と英二の仲が良くなり、 何となく、置いてきぼりを食らったようなそんな気持ちになってしまったリョーマさん。 同じ気持ちを持ちながら、それでも、それを表に出すことなく、昇華してしまっている大石先輩に 思わず当たってしまうリョーマさんが何だか、子供らしくて(^^ゞ でも、それが自嘲だと言うことも判ってて……。 でも、本当に友人関係でもヤキモチ妬いたりすることありますからね。 自分が仲良いと思っていた人が別の人仲良くなる。 別に、その相手を嫌いな訳じゃないけど、何だか、それぞれの一番に居た筈の自分が、 そうじゃなくなったような気がして、沈んでしまったり(^^;) 紅さま、素敵な大リョSSありがとうございました!! ふふ……もう直ぐ大石先輩の誕生日……何か書こうかな〜(^^ゞ |