Which?

 雨の中、どうしても飲みたくなったファンタを買いに、家から近い場所にあるコンビニに向かったその帰り。見覚えのある赤茶けた髪の少年を見かけて、越前リョーマは足を止めた。

 いつもは髪が外に跳ねているが、今は雨の湿気の所為なのか、その跳ね具合もどこか元気がない。ともすれば見落としそうになる、と言うより普段の自分であれば気付かなかっただろう、その存在に気付いたことにリョーマは少しだけ驚いていた。

 雨の中でシャッターの閉まった店の軒先で座り込んでいる。
(一体何をやってるんだか……)
 多少なりと呆れたように、リョーマは暫し考え込んだ。
 無視をしてこのまま、帰ってしまえばいい。
 ろくに話したこともない相手だし、気付かなかった振りをすればいい。
 そう思った瞬間、自分の視界の中にいた少年がふっと微笑んだ。

 彼は、同じ学校の部活の二年先輩である。
 この間のランキング戦で、無事にレギュラーになったリョーマは、同じレギュラーとして、練習はほぼ一緒のコートで行っていた。
 だから、他の一年よりは彼のことを見る機会が多かった。
 話をしたことは、多分ない。大勢の中で、話を振られたことならあったかもしれない。
 その程度の記憶だ。二人きりでゆっくりと話す……そういうことは、ここ二週間の間一度もなかった。
 だから、彼が他の人と話す、その様子を垣間見たことくらいしか、頭の中にはない。
 いつも元気で、楽しそうに笑ってる。
 そうかと思えば、不意に怒り出し、文句を言って周りの人間を困らせる。
 だが、次の瞬間には、その機嫌が好転して、アッサリと周りの意見に同調して見せたりして、気分によって態度がコロコロ変わっていた。
 大概、煩く騒いでいるし、他人をからかうことが好きだと、割と仲良くなった二年の桃城が言っていた。
『基本的には優しいいい先輩だぜ?』とも言っていたが、その辺のことはリョーマにはどうでもいい。
 それよりも気になったのは、さっきの笑顔。
 いつも部活で見る笑顔と違って、はるかに大人びた優しい笑顔に、リョーマは本気で驚いていた。

「あれ? おチビちゃん?」
「……!」
 かけられた声に、リョーマはハッとした。
 その瞬間に、目の前の少年と正面から目が合う。
 何となくバツが悪くて、不自然に逸らすと、跳ねる水音が聞こえて来て、すぐ傍に人の気配を感じた。
「助かったー! ねね、オレの家まで傘入れてってくんない?」
「……何で?」
「あ、ちゃんと兄ちゃんか姉ちゃんに車でおチビちゃん送るように言うから」
「……そういう問題じゃないし……」
 リョーマの言葉に、少年――菊丸英二は、何かを言おうとして口を開きかけて、不意に別のことを口走った。
「うあ、動くなって!」
「は?」
 意味不明の言葉にリョーマは視線を、英二が見ている方に向けた。
 英二のジャケットの中で、何かがもぞもぞと動いて、合わせの隙間からちょこんと顔を出す。
 それは、茶虎の仔猫で、少しだけ震えているように見えた。
「あははは。そこで拾ったは良いんだけど、雨の降りが凄くて帰るに帰れなくなってたんだよ」
 確かに、春とは言え、こんな冷たい雨の中好き好んで濡れる奴もいない。
「携帯も、金もなくてさー。まさに立ち往生してたとこ。おチビちゃんに出会えてラッキーって感じ」
 屈託なく笑う英二は、いつもの英二だった。
 部活で良く見る満面の笑み。何の悩みもなく、屈託もない全開の笑顔だった。

「で? オレが先輩の言うことを聞くとでも?」
「もちろん。明日、ファンタ3本奢ったげる」
「……」
 何で知ってるんだよ、そんなこと? と思いながら、この先輩が二年の桃城と仲が良かったことを思い出した。どっかで、桃城にでも聞いたのかもしれないと、リョーマは軽く舌打ちを漏らす。
「ダメ?」
 年上の癖に甘えるように首をかしげて問い掛けて来る。
 通常であれば「気色悪い」の一言で済むことなのに、何故かその言葉もこの先輩には当て嵌まらない。
 ごく自然にそれを遣って退けてしまっている。一種の特技だと、リョーマは感じた。

 無言のまま傘を差し出して、それに対し英二は更に満面に笑みを湛えて頷いた。
「やっりー♪ じゃ、明日、朝と昼と、放課後に、それぞれファンタ奢るから、おチビちゃんのとこ行くね」
「……」
 無言で頷き、真横に視線を向けると、丁度英二の胸の辺りで、仔猫がジャケットから顔を出している。
「……飼うんスか?」
「いんや、緊急避難かな?」
「緊急避難? 何スか、それ……」
 英二は仔猫が落ちないように傘を持つ手と逆の手で、支えながらゆっくりと歩いている。
「ウチ、犬とオウムいるからね。猫飼えないんだよ。でも、こんな仔猫を雨の中で放置しとけとか言うほど冷たくはないからね」
「……ふーん」
「ま、里親探しは厳命されるけど」
 苦笑を浮かべて言う英二に、リョーマは軽く目を瞠った。
「……おチビちゃん?」
 そんなリョーマに、気付いた英二が足を止めて問い掛ける。
 自分を振り返って来た表情は、やっぱりいつもの英二でしかなかった。
「……」
「何?」
「何でも……」
 歩き出したリョーマに慌てて英二も歩き出し、傘を半分差しかけた。



      ☆     ☆

「また、拾って来たの?」
 呆れたような姉の言葉に、英二は憮然とした表情で反論を返した。
「ああー! この雨の放置してれば良かったってーの? オレ絶対出来ないもんね」
「まあ、そりゃ、そうだけど……。雨なんて単なる口実じゃない」
 姉の言葉に、更に年長な青年が頷きながら同意した。
「そうそう。前に仔犬拾ってきたときは、おなかすいてるみたいで死にそうに見えたとか、怪我してるから放っとくの嫌だとか……」
「殆ど我が侭だよな、英二の」
 最後に高校生くらいの少年が留めとばかりに言って、英二はますます憮然とする。
 そうして、くるっと踵を返すと、仔猫を抱いたまま、玄関に向かおうとしたのを、今度は大学生くらいの女性が止めた。
「またプチ家出するつもりなら、止めときなさいよ。こんな雨の日に、どこで寝る気よ?」
「……みんなが冷たいからおチビちゃんの家に行くの! どうせ、里親捜すのはオレの仕事になんだから、別に良いじゃん!」
 怒涛のように繰り返された、菊丸兄弟のやり取りに、何故か家の中まで上がり込んでしまっているリョーマは唖然として見つめていた。
 一人っ子のリョーマには、こういう兄弟のやり取りは、物凄く新鮮である。
 従姉の菜々子は、あくまでも従姉であって、本当の姉ではないし、色々甘えたところはあっただろうが、ここまで歯に衣着せぬ物言いで、言い合いなどはきっと出来ない。

 それにしても家でもこうなのかと、リョーマは少しだけ苦笑を浮かべて肩を竦めた。
 部活でも、副部長やクラスメートだと言う不二周助などに同じようなことを言って、自分の要求を突きつけてるのを何度か見た憶えがある。

「誰もダメなんて言ってないでしょう? ほら、おなかすいてるだろうし……これくらいなら、雑魚とか食べられそうね」
 英二から仔猫を抱き上げて、キッチンの方に姉の一人が行き、それに続いて次姉も駆け出して行った。
 長兄に頭を小突かれて、英二は軽い笑みを零しつつ、俯いた。
「ったく、みんな英二には甘いよなー」
 軽口を叩きながら、次兄も行ってしまい、リビングにはリョーマと英二の二人だけが残されたのである。

 不意に、思い切り溜息をついてソファに座り込む英二に、リョーマはキョトンと視線を向けた。
「菊丸先輩?」
「取り敢えず、第一任務完了ってね」
 苦笑を浮かべて言う英二がハッとしたように、口許に手を当てて、リョーマを仰ぎ見た。
 立っているリョーマは英二の目線より上に顔がある。
「……もしかして、今までの……演技っすか?」
「さあ? どうだろうね?」
 英二は意味深に笑みを浮かべて、首を傾げると逆に問い返して来たのである。
「演技だって……おチビは吹聴したりする?」
「そんなことして、オレに何のメリットがあるんスか?」
「だよねー……おチビならしないと思った」
 そう言って、頭に載せていたタオルを首に引っ掛け直して、リョーマを見上げたまま微笑んだ。
「……」
「あ、そだ。おチビも、ご飯食べて行けば?」
 そう言って立ち上がると、キッチンの方に向かって歩き出す。
 断るタイミングを外し、リョーマはなし崩し的に、夕飯をご馳走になってしまった。



「じゃあね、おチビちゃん! また明日学校で!」
 車で自宅まで送ってもらった際に、何故か一緒に来た英二が、リョーマが車から下りると同時に言った。
 その声に振り返ると、英二が本当に優しい笑みを浮かべて手を振っていることに気がついて、目を瞠る。しっかり、車を運転している兄には見えない死角の範囲で――

 茫然としている間に車は出てしまい、あっと言う間に見えなくなってしまっていた。

「何だ、リョーマ。帰って来たのか?」
 父の声も、半ば無視したまま、リョーマは、車が去った方向をただ見つめているだけだった。




 子供っぽい言動と、やけに大人びた微笑。



 どっちが本当の貴方ですか?



<Fin>