感覚的相互理解

「おっはよん、おチビちゃん!」

 昇降口に入ろうとしたところで聞こえて来た声に、リョーマは怠惰に振り返った。
 今日も朝から降る雨に、部活の朝練はない。
「はよっす。菊丸先輩」
「……眠そうだねー? あ、そだ。これ上げる」
 そう言って、差し出されたのは一枚のガムだった。
 だが、商品名が書かれているパッケージは剥がされて、銀紙だけになっている。
「何のガム?」
「食べてみてのお楽しみ」
 ニッコリ笑って、英二は三年の下駄箱の方に行きかけて、あっと何かを思いついたように立ち止まってカバンのポケットから何かを取り出した。
「これ、朝の分ね」
「……」
 目を丸くしているリョーマに、英二は再度笑みを浮かべて、今度こそ駆け出して行った。

 右手にガムを持ったまま、左手で受け取った『ファンタオレンジ』に、リョーマは思わず笑ってしまった。靴を履き替え、教室に向かう中、銀紙を剥ぎ取って、口の中に放り込む。


「!!」


 かなりキツイ、ハッカの味が舌を刺激する。
 余り、この感覚が得意ではないリョーマは、耐え切れずに口から吐き出し銀紙に包み込んだ。
「……」
 そのガムの包みを見つめながら、英二がこのガムを持っていたことを意外に感じる。
 もっと甘めのものが好きそうなのにと思いつつ、別のことで暫し考え込んでいると予鈴が鳴り響き、リョーマはそれを近くのゴミ箱に捨てて、教室に向かって駆け出した。ふと、さっきまでの眠気が結構覚めていることに気がついた。
「……そういうことっすか」
 あのガムが、ハッカ系のガムだと気付かずにくれたのか、それとも単なる嫌がらせなのか、悩んでいたのだが、英二の言葉を思い出して関連付ける。

『眠そうだねー』

 単なる眠気覚ましにくれたことに気がついて、苦笑する。
 となれば、これは昨夜約束したものではあるが、これで口直しをするようにと言うことなのかと、ファンタを見つめた。

「変な人……」
 ボソッと呟き、教室のドアを開けて、リョーマは自分の席に向かったのである。


      ☆     ☆


「あ、おチビちゃん、みっけ!」
 移動教室で、理科室に向かう途中で、前方からそんな声を上げて手を振っている英二に、一瞬目を見開いた後、リョーマは無視するように踵を返そうとした。
「おチビちゃんってば!」
 強い口調で呼ばれて仕方なしに足を止めると、腕を掴んで引っ張られた。
「……なんすか? 菊丸先輩…」
 声をかけようとした瞬間に、頬に冷たいものを押し当てられて、言葉が止まる。
「ほいほい、二本目」
 差し出されたフレーバーは、学校の自販機にはないもので、それが何故こんなに冷たいのだろう? と全く関係ないことが頭を掠めた。
「あ、冷たいのは不二が保冷器持ってるから借りたんだよ」
 ビックリしてリョーマは目を見開き英二を見返った。

 何で、自分が考えたことが判ったんだ?

「あれ? それにビックリしてたんじゃなかった?」
「……いや、そっすけど……何で?」
 言いかけて口篭る。
「じゃねー。授業寝るなよ?」
 そう言いながら、笑って駆け出す英二を見送って、リョーマは手元に残されたファンタを見つめて茫然と立ち尽くしていた。


     ☆    ☆

「今日は、ファンタ買わねえのか?」
 昇降口で一緒になった桃城が自販機の前を通りかかったときに、そんなことを聞いて来た。
 リョーマは、数歩歩いて足を止めて、自販機を見返る。
 ポケットにはいつでも買えるように小銭がそのまま入っているが、それを弄りながら、ただ真っ直ぐ自販機を見つめていた。
「越前?」
「………………今はいいッス」
 結局、暫しの沈黙のあとそう言って、リョーマは部室に向かって歩き出した。


「えーーーーー!? 良いじゃん! ちょっとくらいノート見せてくれたってさー」
 部室のドアを開けると同時に、盛大に聞こえて来た英二の声に、一瞬だけ、リョーマも桃城も足を止めて固まった。
「よう、桃、越前」
「……チィーッス。何なんすか、英二先輩?」
「ああ、いつものあれだよ」
「……またですか?」
 大石の言葉に、桃城は多少呆れたように言いながら、部室の中に入って空いているロッカーに、自身のカバンを押し込んだ。
 リョーマも、同じように自分のバッグをロッカーに入れながら、背後で交わされているやり取りに視線を向ける。

「ねえねえ、不二〜ちょっとくらい見せてくれたって良いじゃん」
「ダメ。英二の場合、ちょっとじゃなくて全部だろう? それじゃ意味がないよ」
「むぅー、ちょっとって言ったらちょっと」
「大体、授業中に寝る方が悪いって判ってる?」
 不二の言葉に、英二はコクコクと頷いた。
「昨日、ちょっとゲーム止められなくてさー。でも、今日はちゃんと寝るし! 明日は授業中に寝たりしないから!」
 パンと両手を合わせて、頭を下げつつ懇願する。
 そうしながら、ちらっと片目を開けて上目遣いに不二を見上げた。
 そんな英二に、不二は諦めたように溜息をついて、カバンを開けてノートを取り出した。
「やっりー! サンキュー不二!!」
 心底から嬉しそうに英二はそう言って、ノートを捲りながら、あるところでピタリと止めた。
 そのページを真剣に見つめている英二から、一瞬だけ視線を外して、着替えを始めると、ほぼ同時に部室のドアが開いて、部長の手塚が入って来るのが見えた。
 それに慌てたように、一年が部室を出て行き、更に二年も着替えを済ませて、飛び出して行く。
 リョーマはその後に、ゆっくり部室を出ようとして、視線を何気なく英二の方に向けた。
 まだ、ノートを読んでいた英二が、不意に視線をリョーマの方に向けて来て、視線が正面からぶつかった。
「何やってんだよ、越前。出入口で立ち止まんなよ!」
「……ッス」
 内心感じた動揺を悟られないように、リョーマは促されるまま、部室を出たのである。



      ☆    ☆


 フェンスに凭れたまま、ズルズルと地面へ沈み込んで見るとはなしに、リョーマはコートに視線を向けていた。とは言え、その光景を見ていた訳ではなく、ただ漠然と思うことに没頭していたのである。

「おチビ!!」
 声と同時に自分の目の前に、ラケットの先端が見えたと同時に振り抜かれて、ボールの打つ音が響いた。ラケットが振り抜かれた風圧が、前髪を揺らす。

「はあ……。ビックリした……。何やってんの? おチビちゃんなら、避けられるっしょ?」
 その場にしゃがみこんで、力なく呟く英二に、半ば茫然としていたリョーマはハッと我に返って俯いたまま、帽子のツバを下げて小さく言った。
「すんません」
「まあ、怪我なかったんなら良いけどね」
 弾みをつけて立ち上がりコートに戻って行く英二の背中を見つめながら、頭を強く左右に振った。

 立ち上がって、ラケットとボールを片手に外に出る。
 背後から聞こえる自分呼び止める声も無視して、リョーマはコートを後にした。
 部室の裏手に回って、ボールを無心に壁に向かって打つ。
 いつもいつも、精神的に散漫になったとき、こうすることで気持ちを切り替えたり、集中させたりして来た。リョーマにとっての精神統一の方法でもあった。

 それでも、心の中に感じるもやもやが晴れなくて、余計に苛々してしまって、リョーマは返って来たボールを思い切り地面に叩きつけていた。
 跳ね返ったボールは、自分を飛び越え後方に流れてしまって、リョーマは大きく息をついてラケットを肩に踵を返した。

「機嫌、悪そうだねー」
「まあね。あんたのせいで」
「オレの所為?」
 ボールを拾い上げた相手が苦笑を浮かべて言う言葉に、リョーマは眉を顰めて言い返した。
「何か用ッスか?」
「いや〜休憩だって言うから。ファンタ飲むかなっと思ってさ。今度はおチビちゃんのリクエストに答えようと思ったんだけど」
 手にしたボールを宙に向かって放り投げそれをキャッチして、英二はリョーマの方に視線を向けることなく問い掛けて来た。
「何で、オレの所為なの?」
「……昨日も言ったけど。あんた……演技ってか、振りしてるだけじゃないッスか?」
「フリ?」
「ガキの振り。違いますか?」
 真っ直ぐに、リョーマは英二の目を見つめて問い掛けた。
「……何でそう思うのさ?」
「ただの勘。って言うか、感じたイメージ」
「ふーん。やっぱ、鋭いね」
 リョーマの言葉に否定をせずに、英二はボールをリョーマに向かって放り投げた。
「天才には見抜かれるんだなー……多分」
「天才?」
「そ。これに気付いたのは、手塚と不二くらい。黄金ペアって呼ばれてる大石も結構仲良くしてる桃も気付いてないんだよね」
 そう言ってやはり苦笑を浮かべる英二に、リョーマは軽く溜息をついて歩き出した。
「でも、何でそれで苛つくの?」
「……は?」
「オレが、演技しててガキの振りしてて、何でおチビちゃんが、苛つくのさ?」
 素朴な疑問という感じに問い掛けられて、リョーマは言葉に詰まった。
「別に……」
「答えになってなーい」
「……理由なんかないッス」
「は?」

 自分の中で明確な形をとっていない感情を、ただでさえ口下手でもあるリョーマには、相手に伝える術がない。ただ、何となく気になって考えてしまうだけだ。
 考えてしまう理由が、思い当たらなくて更に気分が下降する。
 英二が、子供の振りをしていようと、友人の前で、本来の自分ではない自分を演じていようと、リョーマには関係ないことである。

 なのに、どうして気になってしまうんだろう?


「どっちが本当のあんたかって考えてたけど。ガキの振りをしてる……って言うなら、本当のあんたはそれほどガキじゃないってことになるッスよね?」
「そう、なるのかな?」
「……オレはガキ扱いされるの嫌なんだけど。だから、何であんたは、あえてガキの振りをするのか、全然理解出来ない」
 リョーマの言葉に、英二が一瞬だけ痛そうに眉根を寄せた。
「理解出来ないから、多分、あんたが気になってるんだと思う」
「……え?」
「それで苛付いてるんスよ」
 自販機の前で足を止めて、英二を見上げると、
「今までオレが飲みたいフレーバー選んでたのは偶然ッスか?」
「え? そうだったの? 結構適当だったんだけど……」
 不意に話を変えたリョーマに、それでも英二は即座に反応して、驚いたように答えた。
「じゃあ、今は? オレが何を飲みたいか判るッスか?」
「そんなの判る訳ないじゃん。オレはおチビちゃんじゃないし。でもまあ」
 言いながら、英二は自販機にコインを投入して、点灯したランプの一つを押した。
「……これかなって思うんだけど、どう?」
 差し出されたのは、葡萄が描かれた缶だった。
「やっぱりね」
「へ?」
「あんたのことは理屈じゃ理解出来ない。どうして? とか考えても判らないけど……それでも感覚的にはあんたが理解出来る」
「よく判んないけど……。うん、オレもそんな感じ」

 理屈じゃなくて、深く考えるのではなくて、感じること。
 感覚的なところで、どうしても理解出来ないはずの、目の前の人物を理解してしまっている。
 相手も同じように――

「あんた、淋しがり屋なんだ?」
「へ? 何で判ったの?」
「やっぱりね。だから、感覚的にって言ったじゃん」
 ファンタグレープのプルトップを引きながら、英二を見上げた。

「もしかして、オレ達結構相性よかったりして?」
 英二の冗談めかした言葉に、リョーマはファンタを一口喉に通して、空に視線を向けつつ言った。
「さあ、それはどうッスかね?」
「ええー? 相性良いっしょ?」
「部長や不二先輩だって、菊丸先輩のこと見抜いたんでしょ?」
「そうだけど、二人とも理由を聞いて来たよ。『なんでわざわざ子供の振りをするんだ?』って」
 リョーマは眉を顰めて英二に無言で先を促した。
「でも、おチビは聞いてこなかったじゃん。理解出来ないって言ったのに、その理由を聞いてこなかった。なのに、オレが淋しがり屋だって『理解(わか)ってる』……」
 そこで、英二はニッコリ笑って――でもいつもの天真爛漫な笑みと言うよりは、どこか大人びた笑みで――続けたのである。

「だから、オレとおチビちゃんは、相性良いって思うんだよ」
 リョーマは肩を竦めて更にファンタを飲んで、
「ま、勝手に言ってれば?」
「勝手に言ってるよ」
 笑う英二に、ふと思いついたことを尋ねてみる。
「あの猫、どうなるんすか?」
「ああ、今、里親探してるとこ。そういう団体があるからね、登録も済ませたんだ。帰ったら、そこに連れてって……後は、おまかせかな。病気の有無とか予防接種とか……色々あるからね」
「ああ、あれ結構、高いッスからね」
 さすがに猫を飼ってるだけあって、リョーマは納得したように頷いた。
「一緒に行く?」
「……」
 反射的になんで? と問い掛けたのに、何故か口を付いて言葉は出てこなかった。
 ただ、自分を見下ろして来るその目を見ていると、自分の思惑とは逆に頷いていて、後で自分でビックリしてしまった。
「――まあ、気にはなってたし。別に良いッスよ」
「んじゃ、一緒に帰ろうか? ついでにまた、夕飯食べてけば良いし」
 そう言って、英二は笑みを浮かべて、「決定決定〜」と歌うような節をつけて駆け出した。
 飲み干した缶を、ゴミ箱に投げ入れて、リョーマもそれに続く。
「ってか、勝手に夕飯食べるとか決めないで欲しいっすけど……菊丸先輩」
「英二」
「は?」
「エージで良いよ。おチビちゃん」
「……呼び捨てっすか?」
「ああ、そっか。同級と同じ感覚になってた。んじゃ、エージ先輩かな?」
 当たり前のように言う英二に、別に拒絶することでもないので、リョーマは軽く溜息をついたあとで、小さく頷いた。
「良いッスよ、エージ先輩」
「にゃはは……ってー! ヤバイ、もう休憩終ってる!!」
 英二の言葉にさすがにリョーマも焦りを見せて、二人して全力でコートに戻る。
 結局、一分ほど遅れた二人は揃って、手塚より校庭20周の罰走を命じられたのだった。






 理屈じゃなくて、感覚で。
 それで理解出来るなら、それで良い。

 でも、その感情は……どちらかと言えば、きっと――

 恋に近い感情だと。
 まだ、その時は互いに気付かずにいた。


<Fin>