ILLUSION・KISS


「最近、どうかしたの?」
 休み時間の教室で、友人に借りた漫画雑誌を読んでいた英二は、声のした方向に視線を向けた。
「は?」
 何のことか判っているのに、敢えて惚けてみせると、声の主――不二周助は、苦笑を浮かべて隣の自分の席に腰掛けた。
「この間まで、結構仲良さげにしてたのに、最近、あんまり話してないんじゃない? 越前くんと」
 今度はしっかりと主語を入れられて、英二は諦めたように肩を竦めて雑誌を閉じた。
「そう見える?」
「露骨にね」
「ふーん」
 曖昧な相槌を打って、英二は雑誌を机の上に軽く放り、椅子の背凭れに体重をかけて、後ろの足だけでバランスを取リ始めた。
 ゆらゆら揺れながら、頭の後ろで両手を組み、
「最初から特に、仲良いって訳でもなかったっしょ?」
「そうかな?」
「そうだよ」
 断定する英二に、不二は呆れたように溜息をついた。
「僕は、地区大会が始まる前に、君から『オレとおチビちゃんの相性ってすっげ良さげなんだ』って言葉を聞いたような気がするんだけど」
 英二の喋り方を真似て言う不二に、英二はげっそりとした表情で、不二を上目遣いに見つめた。
「オレ、そんな喋り方してる?」
「自覚ないの?」
 本気で驚いたように不二が言い、英二は大きく溜息をついて机に突っ伏した。
「何か、不二に真似されると、バカみたいに聞こえる」
「みたいじゃなくて、バカな喋り方してるんじゃないの?」
 アッサリ切り返されて英二は声に出して笑い出した。
「そうかもねー。で? 何で不二がそういうこと聞いてくるのさ? オレがすることもおチビちゃんのことも不二には関係ないじゃん? 直接関係ないことには、自分から拘わらないんじゃなかったっけ?」
 不二は、口許に笑みを浮かべながら、英二から視線を外し正面を向いて座り直しながら、
「そうなんだけどね。でも、最近何だか英二は荒れてるみたいだし……。越前くんも、どっか変だから。試合に響くと色んな面でマイナスでしょう?」
「……別に荒れてなんか……って、おチビが変って……?」
 自分自身の否定しようとして、更に続いた不二の言葉に、意識がそちらの方に向かってしまった。
「気になるんだ?」
「……べ、別に……」
 今更、白を切っても不二には通用しない。
「英二が荒れてるのなんか、大石とか桃に対する態度見てれば判ることだろ? よりいっそう、我が侭が酷くなってると思うけど?」
「そ、れは……」
「逆に僕に対して我が侭を言う回数が減るからね。君、ここ最近、僕にノート見せてって全然言ってない自覚ある?」
「え?」
 そのしわ寄せは全て、大石に向かっていた。
 桃城には下校時、どこそこに付き合えと強制することが多くなり、好き勝手に連れ回している。
「全然、意識してなかった……」
「そりゃそうだろうね。いつも君なら、その辺計算して行動してるはずだから」
「何か人聞き悪いなーそれ」
「本当のことだろう?」
 にべもなく言い返されて、英二は膨れっ面のまま、再度背凭れに重心をかけた。
「そんで? おチビが変ってどういうことさ?」
 取り繕ったところで今更だからと、英二は開き直って問い返した。
「まさか……気づいてない訳じゃないよね? 英二」
「へ?」
 キョトンとした表情で、問い返す。
 惚けた振りは、得意中の得意だし、理解していない振りも見破られたことは殆どない。
「殴れば目が覚めるかな?」
 そう言って、バインダーを取り上げる不二に、英二は慌てたように椅子でバランスを取ることをやめて、両手を上げた。
「や、悪かった! 気づいてない……ことはないよ。うん」
「だったら……僕の言いたいことも判ると思うけど?」

 不二の言葉に、英二は目を伏せて、大きく溜息をついた。

「どうすれば良いのか、判んないんだ」
 呟いた言葉に、不二が首を傾げる。
「何を?」
「不二は……手塚と付き合うとき、抵抗なかった?」
 更に低められた声に、不二はそれでも聞き逃さずに軽く目を見開いた。
「英二?」
 問い掛けると英二は、溜息をつきながら、三度椅子を後方にずらした。
 ゆらゆらと自分で揺れながら、見るとはなしに天井を見つめる。
「地区大会の時に……怪我した越前見て、『コイツ、試合止めない』って何となく『理解』ったんだ。本当に試合が終るまで、コイツは試合を止めることはしないなって……」
 教室のざわめきの中で、小さく語られる英二の声は、不二以外には聞こえていない。
「そんで……」
 言いかけて言いよどむ。
 どう言えば良いのか判らないまま、何かを模索しようと、視線をあっちこっちに彷徨わせた。
「ああああああああっ!!」
 不意に絶叫を上げて、机を力一杯叩くと、英二は倒れた椅子をそのままに、顔洗って来ると、不二に告げて教室を出た。

 水道の蛇口を思い切り捻って、盛大に水を出し両手に受けていると、窓の向こう――グラウンドに向かう一年の集団を見かけた。
 見るとはなしに見つめていると、その中の一人がこちらを見返った。

「!」
 一瞬、視線が交錯して、慌てて英二はその場に突っ伏すようにして身を屈めた。
「越前……のクラスかよ」
 思わず呟き、そっと身を起こして、もう一度、外を見るともう誰の姿もなかった。
「はああ……」
 思い切り水飲みのシンクに懐いて、溜息をつく。
「変だよね……。もっとずっと見ていたいとか……側にいたいなんて……」
 不二に言いたくても言えなかった言葉を、小さく吐き出す。
「……ふーん。……エージ先輩って……誰か好きな人でも……いるんすか?」
 いきなり背後で聞こえて来た声に、英二は反射的に振り返った。
「って、越前?」
 肩で荒く息をつきながら、呼吸を整えて行く。
 体操着を着ているリョーマは、英二の隣の水道の蛇口を捻ってそのまま、流した水を直接口で受ける。
「何で告白しないッスか?」
「……告白しても無駄だから」
「ふーん」
 薄く笑みを浮かべて言うと、案の定素っ気ない返事が返って来た。
「おチビは……まだ、そういうの興味ないか。オレもおチビくらいの頃は、そういうことより、テニスしたり友達と遊んだりの方が楽しかったもんな」
 二年前のことを懐かしいと思いながら、天井に向けていた視線をリョーマに向けた。
「ところで、何やってんだよ? 次体育なんだろ? こんなとこ来てる暇あんの?」
「……別に多少遅れても、どっかの部長みたいに、校庭走らされたりもしないんで……」
 リョーマはそう言いながら、隣でシンクに懐いたまま座り込んだ状態の英二の方を向いた。
 いつまでも不自然にシンクにしがみ付いている訳にもいかないと、身体を起こして、立ち上がろうとした英二のすぐ目の前に、リョーマの姿があった。

「え、越前?」
「……オレにも居るッスよ? ずっと一緒にいたいと思う人……」
「え?」
 英二は完全に体勢を立て直して居なかったから、殆ど中腰状態で、リョーマとは視点が真っ直ぐに合っていた。
 いつもは見下ろす位置にいるリョーマの目が、すぐ目の前にある。
 ちょうど、休み時間終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
 それに慌てて移動を始める生徒たちの中に、英二とリョーマのことに気づく者はいない。

 掠めるように触れたそれに、英二は目を瞠った。

「そんじゃ……」
  リョーマは不敵な笑みを浮かべて、何もなかったように、踵を返した。
「おチビ?」
「……オレは……」
 言いかけたところで、さすがに廊下に誰もいなくなってしまえば、授業に来た教師の目に止まる。

「菊丸? 何やってるんだ? さっさと教室に入りなさい。そこの一年も、授業はもう始まってるぞ」
 教師の言葉にリョーマは軽く返事をして、英二に向かって小さく頭を下げた。
 そうして、そのまま駆け出して行く。

「菊丸?」
 自分を呼ぶ教師の声も、どこか遠くで聞こえる。
 ゆっくりと右手を動かして、自分の唇に軽く触れた。
 驚異的なスピードで一階に下りたらしいリョーマが、校庭に向かって走っている後ろ姿が窓から見えた。
 それを確認した瞬間、リョーマが振り返って、自分を見上げて来る。
 さっきと同じように、視線が正面からぶつかって、だが英二は今度は動くことが出来ずにいた。

 結局、呆れた教師に教科書で頭を叩かれ、英二は渋々とその場から離れた。
 リョーマは既にグラウンドの方に駆け出している。


 その背中を視界に納めてから、英二は教室の中へと足を向けた。




「何? 何かすっきりした表情してるね?」
「うーん? 悩むのやめたからじゃない?」
 不二の言葉に、あっけらかんと答えて、英二は軽く笑みを浮かべ、教科書を手にページを捲っていた。


<Fin>