Eye’s


 部室のドアを開けると、一際賑やかな声が耳を打った。

「大石ー! ノート見せて!」
 甘えたような声を出して、黄金ペアと呼ばれる相方に縋りつく声の主に、リョーマの眉根が勝手に寄る。
 何がこんなに癪に障るのかリョーマ自身にも判らず、だからこそイラ付きも増して、ロッカーに乱暴に荷物を放り込んだ。
「機嫌悪そうだね? 越前くん」
 別に、その音に本気で驚いた訳ではないだろうに、わざと目を見開いた後、苦笑を浮かべて問い掛けられた。
「別に」
「眉間に皺寄せて何言ってるのかな? それじゃ、二年後は手塚みたいになっちゃうよ?」
 本気で言ってるのか冗談なのか、イマイチ判らないままリョーマは自分の眉間に人差し指を突きつける相手をマジマジと見つめた。
「別に部長みたいになっても、オレは困らないし」
「いやそれじゃ、周りにいる人間は大変だよ。手塚みたいなのが二人になったらね」
「どういう意味だ? 不二」
 新たに聞こえた声に、更に視線を移動させる。
 既に着替えを済ませていた手塚自身が、乾と一緒に練習メニューについて話し合っている最中だったらしい。
 本来、大石もこれに加わっているのだが、如何せん、今は英二に捕まっている。
「言葉通りの意味だけど?」
「下らないこと言ってないで、菊丸をどうにかしろ」
「……ああ、ミーティングの邪魔になるね」
 そう言って、不二はその場から、今度は桃城に絡んでいる英二の側に向かった。
 リョーマは見るともなしに、その光景を見つめながら、それでも手は着替えるためにシャツのボタンを外していた。
 あそこまで駄々を捏ねている彼――菊丸英二を、リョーマは今までの短い期間でも見たことはなかった。
 大体、あの人はあそこまで駄々を捏ねるほどの子供ではない。
(……気を引きたくて子供の振りをしてるのは、子供って言うんじゃないか?)
 自分の思考に自分で突っ込みを入れつつ、リョーマは脱いだシャツを無造作にロッカーに押し込みウェアを取り上げた。
 いつになく、大石や桃城に絡んでいる英二に、不二がどういう風に仲裁に入るのか、何となく興味があった。
 だが――

「英二」

 いつも呼び方とは少し違う、独特のイントネーションで呼ばれた瞬間。
 英二がピタリと動きを止めた。
 まるで何かのスイッチが切り替わるかのように、動きを止めた英二が再び動き始めた時には、大石に借りたノートを開き直していた。
 思わず呆気に取られて、リョーマはその光景を見つめていた。
 不二はそれ以上、英二に何も言うことはなく、ラケット片手に部室を出て行く。
 大石は幾分ホッとしたように、手塚と乾の居る方に足を向けていた。

「ああ、参った」
 ブツブツと言いながら桃城が荷物をロッカーに入れて、着替え始める。
 隣で呆けているリョーマに、キョトンと声をかけたのは桃城自身着替え終えてからだった。
「さっきから、何やってんだよ? 越前」
 桃城の声にハッと我に返って、リョーマはそれでも何もなかったように着替えを続行をした。
「越前?」
「別に何でもないっすよ」
 そう言って、ジャージーを羽織って、やっと桃城の方に視線を向ける。
「また執拗に絡まれてたッスね?」
「まあ、あんなのは序の口だけどなぁ」
「序の口?」
「ああ。前はあんなもんじゃなかったって。こっちが言うこと聞かなかったら拗ねるし喚くし……。不二先輩の一声でも、早々止められないこと多かったからな」
 リョーマは半ば本気で、目を見開いて桃城を凝視しながら口を開く。
「……あそこまで無意味に駄々捏ねてるの、初めて見たッスけど?」
「ああ、そう言えば……最近、ちょっと大人しかったような……」
 部室のドアに向かいながら、桃城が思い出すように言って首を傾げた。
「ふーん」
 内心『つまらない』と思う気持ちを不思議に思いながら、リョーマは気のない振りをして曖昧な返事をしたのだった。


     ☆     ☆

「眉間の皺。増えてるよ?」
 順番待ちで、フェンスに凭れていたリョーマはかけられた声に、慌てて眉間に手を触れた。
「英二が何かした?」
「……別に」
 不二の問いに、素っ気なく答えて、帽子のツバを下げる。
 こうすれば、身長の低い自分の表情を、相手に悟られることがなくなる。
 だが、それ自体が、『表情を悟られたくない』という意思表示になってしまっていることに、リョーマ自身気づいては居ない。
「もしかして、英二のこと嫌いなの?」
「は?」
「何か物凄く嫌そうに見てるから」
「……」
「ああ、逆かな?」
 黙り込んだリョーマの様子に、不二はポンと手を打って弾んだ声でそう言った。
「逆?」
「……君は嫌いな人間って多分居ないでしょう? むかつくとか嫌な奴と思ったら、即刻記憶から削除して近付きもしない。だから、敢えて視線を向けることもしないよね?」
 問い掛けられてもうなずくことも出来ずに、リョーマは本気で驚きを持って不二を見上げた。
「要するに、君は英二が好きだから、腹が立ってるんだ?」
「……は?」

 はっきり言って思い切り間の抜けた声だったと思った。
 その証拠に不二は声を上げて、心底から楽しそうに笑い出した。

「不二先輩?」
「……ごめん。でも、君でも本気で驚くことがあるんだね。手塚より表情が豊かみたいだ」
「……一緒にしないで下さい」
 脱力しながら答えを返し、もう一度不二を見上げて問い掛けた。
「で? どういう根拠で、オレがエージ先輩を好きって言うんスか?」
「君が視線を向けているからだよ」
 アッサリとした言葉に、リョーマは目を見開いた。
「君は、本気でどうでも良いと思ってる人間には、決して視線を向けない。これでもかってくらいハッキリした性格でウソがつけない。そんな君が、そこまで視線で追う以上、何か理由があるはずだろう?」
「……」
 憮然とした表情で、不二から視線を逸らして、帽子のツバを弄った。
「決め付けるつもりはないけどね。傍から見てるとそう見えるってだけのことで。現に手塚が打ち合いしてれば、釘付けになるくらい見てるし、他のレギュラーだって、軽い練習試合でも目を逸らすことなく見てることが多いよね?」
「……そうっスか?」
「テニスを……特に試合形式でゲームをしている場合なら、理由なんて簡単だけど。ああ言う悪ふざけをしている英二にまで視線を向けるのは、テニス以外で興味を持ってる証拠だよね?」
「何か、分析されても嬉しくないっすね?」
「あははは。まあ、半分は乾の分析だけど」
「あの先輩、一体人の何を見てんスか?」
「……さあ? 多分、全てなんじゃない? 出来る限りのデータは集めようと努力してるんだよ、きっと」
「将来優秀な探偵になれるかも知れないッスね」
 もちろん冗談で言ったのであるが、不二は間に受けたのかどうか本気で笑い出してしまった。
「そこまで笑うことないじゃん」
 ふて腐れたように言いながら肩を竦めると同時に、不二の手が帽子越しに自分の頭に触れた。
 頭を撫でられてることに気づいて、更にムッとしつつ、不二に視線を向ける途中で、こちらを見ている英二が、一瞬視界の端に映ったと感じた。
 ゆっくりと、視線を戻して英二の目を正面から見据える。
 すると、英二の方が慌てたように視線を逸らし、踵を返してコートの向こうに行ってしまった。
「……やっぱり英二の様子、変だね」
「……え?」
「今までなら、もっと気軽に声をかけて来てただろう?」
「そっスね。鬱陶しいくらい」
 言葉そのものは嫌悪の響きを持っているのに、リョーマの表情はどこか淋しげに見えて、不二は苦笑を浮かべた。
「英二は……利口バカだから」
「は?」
 揶揄するような口調で不二は言い、「じゃ、次ボクだから」とコートの方に行ってしまった。


「利口バカ……ね」
 確かに敏いからこそ、バカな面があるかも知れない。
 と言うよりも、彼は自ら余り頭の良くない振りをしている。
 子供のように全面的に甘えを出して、他人の気を引いているのは彼が、想像以上に淋しがり屋だからだと言うことは、リョーマも知っていた。
 短い付き合いながらも、リョーマにも不二の言葉の意味が何となく理解出来る。
(でも、何で無視されなきゃなんない訳?)
 釈然としない思いのまま、リョーマは何度目かの溜息をついて、フェンスに凭れた。

 もしも、自分の言った言葉や取った行動が、彼の何か触れたというのなら、無視されるのも仕方がない。釈然としないのは、それに対して全く身に覚えがないからだ。

(何でこんなに気になんだろう?)
 疑問を浮かべて、不二の言葉を思い出す。
(そりゃ、嫌いじゃない……し。嫌いな奴のことなんか、考えることさえしないし)
 さっきより遠くなった英二の姿を目で追うと、視線が合った。
 慌てて目を逸らして、側にいた乾に声をかけている英二に、リョーマは一瞬、唖然とした後。
 笑みを浮かべてクスクスと笑い出した。

 要するに――目が合う――と言うことは、必然的に向こうもこっちを見ていると言うことだ。

(何だ……。そういうことッスか? エージ先輩)

 自分が彼を見つめる理由が、彼を好きだと言うことであれば、彼が自分を見つめる理由も同じだと思って何が悪い?
(好き……。そうかも知れないッスね。不二先輩)

 気になるから、視線で相手を追う。
 気になる理由に無理に理屈をつけても意味がない。
 その姿を求めているから、捜してしまう。
 それだけのことだ。

(見続けていたいと思うくらいには、エージ先輩のこと好きなんすよ、オレ……)


 結論付けると、スッキリした。
 ラケットを片手に立ち上がる。

「越前!!」
 タイミング良く呼ばれてリョーマはそちらに視線を向けた。
 帽子のツバを軽く上げて、テニスコートの中へと歩き出す。

「負けないッスよ、桃先輩」
「そりゃ、オレの科白だっつーの」

 リョーマは不敵な笑みを浮かべて、一瞬だけ、視線を桃城から外した。
 こちらを見ている英二に軽く笑みを浮かべて、すぐに目を逸らし、手にしたボールを高々と空に向かって放り投げた。



<Fin>