小さな幸せ

 冬とは言え、窓を閉め切った日の当たる窓側の席と言うのは、まるで春の陽だまりのようで。

 しかも、昼食を食べ終えたあとの、5時間目の授業とくれば、寝るなと言うのが無理だったりして……。
 普段から、そんな理由などなくても、平気で寝こけている筈の、リョーマはわざわざそんな理屈を考えながら、既に夢うつつ状態にいた。


「越前の奴、また寝てるぜ」
「ホントに良く寝るよね?」
 クラスメートたちが、ボソボソと呟き合うのも、当然知らないまま。
 授業が半分を過ぎた頃には、既に完全に寝入っていた。

(また、寝てるか、あいつは……)
 教師が、リョーマが寝ていることに気付いて、教科書を読みながら近付いて行く。
「……やべ、越前、起きろよ!」
 後ろの席の堀尾が、リョーマの背中を突っ突いた。
 だが、それに間に合わず、教師がリョーマの隣に立ち、持っていた教科書を丸めた。

「越前、起きろ……」
 そのまま、頭を叩くつもりだったのだろう。
 だが……教師の動きが途中で止まった。

 訝しげな他の生徒たちは、教師とリョーマを見比べて……。
 不意に リョーマの前の席の女生徒が、頬を真っ赤にして、リョーマから視線を外した。
 それに興味を持った他の生徒も同じように、リョーマを覗き込むが、反応が全て同じだった。

「……越前、起きろ。具合でも悪いのか?」
 他に言いようがなくて、教師はそう声をかけながら、リョーマの肩を揺さぶった。

「……ん? え……?」
 クラス中の注目を浴びつつ、側に教師がいることに、リョーマの方が狼狽してしまった。
「あ、もしかして……当たってた?」
 ボケたことを言いながら、立ち上がって教科書を手にする。
「……具合が悪いなら、保健室でも行って来い」
 教師は教壇の方に戻りながら、軽くリョーマの頭を小突いてそう言った。
「別にどこも悪くなんか……」
 言いかけて、自分の頬を伝っていたそれが、手の甲に落ちて、目を丸くした。
(何これ? 涙? ……もしかして寝ながら泣いてた?)

 目元を乱暴に擦って、リョーマはそのまま席から離れた。

「頭痛いんで、保健室行って来ます」

 特に、声音も表情も態度も変えずに、リョーマは淡々と告げて教室を出た。




「何で……泣いたりしたんだろう?」
 独りごちつつ、本気で保健室に向かう気にはならず、そのまま部室の方に向かって歩き出していた。



     ☆  ☆  ☆


「え? 保健室?」
 授業が終わって、リョーマを迎えに来たのだが、姿が見えずに、近くにいた堀尾に問いかけたのだ。
「そうなんすよ。何か寝てると思ったら、泣いてて……。そんで先生が、保健室に行って来いって……。それっきり帰って来てないっすよ?」

 泣いてた?
 あのリョーマが?

 
 寝ながら泣いてたってことは、相当に嫌な夢を見ていたんだろうか?

「そう? ありがとね」
 軽くそう告げて、英二は踵を返して駆け出した。



   ☆  ☆  ☆

「おチビ〜!」
 部室のドアを開けて、相手を呼びながら入る。
 ベンチで寝転んでいたリョーマは、その声にうっすらと目を開けて慌てて飛び起きた。

「エージ?」
「そうだよん♪ 今、教室迎えに行ったらいなかったから、ここかなっと思ってさ」
「……」
「どしたの?」
 教室に行ったのなら、事情を聞いている筈なのに、何も聞いて来ない。

 嫌な夢を見て泣いたからと、一々心配されたり、詮索されるのは好きじゃない。
 
 だから、これは英二なりの気遣いだと……判っていたけど。

 でも、夢の内容を思い出してしまった。
 この夢を……泣くほどイヤだと思ったのは……。
 そう思うように仕向けたのは……他ならぬ……目の前の人物なのに……。


「聞いたんでしょ?」
「うや? 何を?」
「……オレが教室にいなかった理由……」
「頭痛くて保健室に行ったって? でも、保健室にいなかったから、ここかなっと」
「ウソばっか」
「……うぇ?」
「真っ直ぐ、ここに来たんでしょ? 保健室に、オレはいないと思って……」
「何で、判ったの?」
 語る落ちるとか言うのはこう言うことを言うんではなかったか?
 最も、あまりに日本語は得意ではないリョーマには、そんなことは判らなかったが……。

「……ただのハッタリ。でも、本当のこと聞いてれば、それっくらいのこと、判ると思ったから……」
「ありゃりゃ……見抜かれてるし」
 英二はそう呟きながら苦笑して、リョーマの俯いたままの頭に手を載せた。
「触れて欲しくないと思ったんだけどね?」
「……いつもならね。でも、原因はエージの所為だし」
「はあ? 何でオレのせい?」

 そう言って、それが理不尽な理由だと思い至り、リョーマは口篭った。

「別に……もう良いよ。ただの夢だし……」
「……ねえ、知ってる? 悪い夢や嫌な夢は、三日以内に人に話した方が良いんだって」
「え?」
「正夢になるかもしれないんだってよ?」
「正夢って……何?」
「夢が現実になること……」
「……!!!」

 如実に息を飲んで、青褪めるリョーマに、英二は本気で目を丸くして慌ててしまった。
「な? リョーマ? 何、そんなに嫌な夢だったの?」
「……だ、だって……エージ、他に好きな人出来たって……」

 小さな……絞り出すような声で、リョーマが言った。

「高校行って、今より会える時間減って、すれ違って……他に好きな人出来たから……」
「リョーマ……」

 一向に……。
 リョーマは英二に視線を向けようとはしないまま、吐き出すように言った。

「でも、それってリョーマに言えることだよね?」
「そんなこと!」
「うん。だからね。……リョーマの気持ち、オレにも良く判るってこと」
 慌てて顔を上げたリョーマに向かって、ニッコリ笑って英二は言った。

「……おチビってば、年上にも人気あるけど、年下にもモテそうだもんね」
「……そんなこと……」
「……」

 少し考えるようにしていた英二は不意に、自分のバッグから、何かを取り出した。
「エージ?」
「リョーマ、左手出して」
「?」

 英二の言葉に従って、左手を差し出すと、英二はその手首に自分のリストバンドを嵌めた。
「……」
「ね? おチビのも頂戴?」
「あ……」

 リョーマは、英二が周到に持って来てくれていたカバンから、自分のリストバンドを取り出した。
 英二の右手首に嵌めていると、英二がクスクスと笑う。
「エージ?」
「まるで……指輪の交換みたいだね?」
「…………っ」


「オレ、菊丸英二は、病める時も健やかなる時も、変わらず越前リョーマを愛することを誓います」

 なんてねと茶化すつもりだった英二は、目の前のリョーマの反応を見て、驚愕してしまった。

「え……りょ、リョーマ?」

 英二の右手を握り締めたまま……


「オレも……誓います……」

 途切れ途切れに聞こえた声に。
 ちゃんと……言葉が声にならずにいたけど。
 リョーマの気持ちが伝わって来て、英二は頷いて、そっと抱き締めた。




    ☆  ☆  ☆

「何やってんすか? 不二先輩?」
 部室のドアを少しだけ開けた状態で、中を伺っている不二に、部活に来た1,2年を代表する形で桃城が問い掛けた。
「うん。ちょっと面白いことになっててね。誰か、カメラなんて持ってないよね?」
「携帯で写真撮れる奴ならありますけど?」
「あ、貸してくれる? これってそのまま、相手に送れるんだよね?」
「まあ、そうっすけど」

 いまいち、何を考えてるのか判らない不二の言葉に、桃城は肩を竦めつつ、嘆息した。


 どうせ、何があっても、この人を止めることなんて、出来やしないのだから。




 数分後。
 自分の携帯の着信メロディにメールが来たことを知った英二は。
 送られて来たメールに自分たちの写真が写っていることに、絶叫したそうな……(笑)


 よく判っていない、リョーマは……自分の手首の英二のリストバンドを見つめて。

 ――普段は見せない柔らかな笑みを、その口許に浮かべていた。

(2002.02.16)