風が吹き抜ける。
 太陽の光も、殆ど届かないこの場所に。
 下手をすれば、風も吹かないこの場所に。

 風を運ぶ……。
 緩やかに、淀んだ空気を払うように。

「エージ!!」
 呼ばれて英二は、振り返った。
 だが、自分が、居る場所を思い出して、視線を更に下方に向ける。

 自分たちが暮らしている家のベランダから、その声の主はこちらに向かって手を大きく振っていた。

 真っ黒な艶やかな髪と、うっすらと赤と緑が交じり合ったような瞳を持った年下の少年。
 心を許していない相手には、本当に素っ気無くて、愛想なくて生意気で。
 なのに、自分やリーダーである克也=城之内、サブ・リーダーの周助=不二。
 それから、二週間ほど前にここに来た遊裏=武藤――彼には初対面からほぼ、甘えていたように見える――の3人には、本当に心底からの笑みを見せたり拗ねたり甘えたりしてみせる。

 その少年が、ベランダから自分に向かって手を振っている。
 隣には遊裏が居て、二人で洗濯物を干していたらしく、なんとも微笑ましい。

「エージ! そっち、行って良い?」
 声が聞こえやすいように、風の力を多少利用する。
 何と言っても、今英二がいるのは、向かいのビルの屋上なのだから、声を張り上げていても、本当にかすかに聞こえて来る程度なのだ。
 少年……リョーマ=越前の声を拾って、英二は少し考えて、ふわりと宙に浮き上がった。
 そうして、そのまま、リョーマの元まで飛んできてしまう。

「エージ……」
「……あのビル、中は通れないから、どっちにしても来られなかったよ。オレは外から上がったの」
「何だ……」
 呆れたような目で英二を見たリョーマは、その言い分に肩を竦めて頷いた。
「今度、連れて上がってあげるよ?」
「……別に。エージ、能力使うの嫌いじゃん。だから、別に良い」
「……」
 リョーマの言葉に、英二は少し驚いて目を見開いた。
「エージ?」
「リョーマ。オレは先に行くな。ごゆっくり」
 遊裏がそう声をかけて、空になった籠を手に、部屋の中へと入って行った。

「……最近、そう嫌いでもないよ? この能力」
「そうなの?」
「……少し高い場所に行くとね。ここでも風が吹いてるんだよ。で、その風に吹かれてると気持ちいいなーって思えるんだ」
「……オレはね。エージが傍にいるだけで、風を感じるよ? 本当に気持ちの良い風を、感じる……」
「へへ……そ?」
「うん」
 そっと、リョーマが英二の腕に、手を添えて来る。
 そんなリョーマに笑みを向けて、英二はリョーマを抱き締めた。



 この子の存在に、どれだけ救われたか判らない。
 抱き締めながら、英二は、二年前……。
 まだ、15歳になったばかりの自分が、初めてここに来た時のことを思い出していた。




風光
第1話




 その日、英二は朝から不調だった。
 目が覚めた時から、頭が痛くて、それでも、今日は数学と現代国語で、試験があるからと、制服に着替えて階下に向かったのである。
 両親は既に仕事に出ていて、今日は休みらしい姉が朝食の準備をしてくれていた。
「具合でも悪いの?」
 問われて、英二は少し肩を竦めて、
「ちょっと、頭が痛いだけだよ」
「そう? ヒドイようなら、クスリ飲んだ方が良いんじゃない?」
「でも、眠くなるし……。1時限目からテストだから、それはヤバイっしょ?」
「じゃあ、学校で酷くなったら、保健室行くのよ?」
「判ってるって」
 英二は、5人兄弟の末っ子だった。
 一番上に、24歳になる兄がいて、その次に、目の前にいる22歳の姉が居る。
 もう一人の姉は、大学生になったばかり。すぐ上の兄は、高校1年で一つ違いだった。
 既に、長兄は仕事に、次兄は学校に行っているらしい。

 朝食を済ませて、洗面所に向かい身支度を整えて、自室に戻ってカバンを片手に時間割を確認する。
 そうして、いつも通り、英二は家を出た。
 相変わらず、頭痛は続いていた。



 学校についても、頭痛は引かず、いつもと同じように、クラスメートたちが何かと話し掛けて来る。
 その声が……頭に響くように痛みを強めるので、英二は机に突っ伏して、
「悪い〜頭、痛いんだよ〜だから、あんまりでかい声出さないで」
「何だよ? それって二日酔か?」
 英二の周りで、昨日のテレビの話だとかに盛り上がりつつ、1時限目の数学のテストについて話したりと忙しない。
 テストのための見直しも出来ず、英二はただ、机に突っ伏して、級友たちの話に参加せずにいた。
 いつもは、率先してあーだこーだと言う英二が、本格的に参っている状態に、さすがに事態が思いの外、深刻だと判って来た友人たちは、場所を移して話始める。

「おはよう。英二?」
 隣の席で、クラスでも割と仲の良い、大石秀一郎が教室に入って来たのは、そんな時だった。
「……具合でも悪いのか? 保健室に行った方が良くないか?」
「うー……煩いってば」
「でも……」

 心配そうに、大石は英二の肩に触れた。
 その瞬間。
 まるで、突風が吹き抜けるように風が吹いた。
 季節柄、窓は閉まっていて、当然、風が漏れ入って来ることさえありえない。
 そんな教室の中を、物凄い勢いで風が吹きぬけ、その風に煽られる形で、大石は弾き飛ばされたのである。
 それだけではなく、教室中をまるで暴風が荒れ狂うように、風が吹き上げて、ありとあらゆるものを飛ばした。



「……?」
 英二は、幾分、頭痛が引いたことに気付き、そっと顔を上げて、その惨状に目を見開いた。
 突風とも言える風に(風速で言えば、ゆうに25メートルは越えていると思われる)煽られて、引っくり返った机や椅子。その陰に蹲っているクラスメートや倒れている生徒の姿。
「な、何? 何があったんだ?」
 慌てて席を立つ英二に、近くにいた男子生徒が、机の陰から身を起こして、唸るように言った。
「何……言ってんだ? 菊丸」
「え?」
「……お前がやったんじゃないのかよ!?」
「はぁ? オレが……? オレが何やったって……」
 そこまで言ってから、英二はハッとして、自分の側にいた筈の大石の姿を探した。
「……大石?」
 その声に答えるようにうめき声が聞こえた。
 英二は、弾かれたように見返って、教室の後ろのロッカーの前に倒れている大石に気が付いた。
「大石!!」
 駆け寄ろうとした英二は、倒れた椅子に足を取られて、転びかけた。
 それでも、大石の側に向かおうとするのを、前に立ちはだかる形で、クラスメートに阻止された。
「……近付かないで!」
 英二は、気さくで人当たりもよく、明るい性格で、クラスの殆どは英二と親しくしていた。
 英二も、元々が裏表のある性格ではないから、ごく普通に友人たちと接していた。
 もちろん、隠し事がなかった訳じゃない。

 自分の感情……特にマイナスの感情によって、自分の周りに風が起こることを、英二は知っていた。
 怒った時や落ち込んでるときに起こる風の威力は、かなり凄まじかった。
 一度、家の窓ガラスを割ってから、英二は、それが、マイナス感情に左右されるものならば、マイナスの感情を表に出さないようにすればいいと、滅多なことで、怒ったり悲しんだり落ち込んだりと言う、感情を吐露しなくなったのである。
 ――だが、こんなことは初めてだった。
 確かに、今の自分の感情は、プラスとは言えない。
 身体の具合が悪いから、頭痛がするから、気分は本当に最悪だった。
 でも、身体が不調になったからと、こんな風に教室中がメチャクチャになるような風を、巻き起こしたことは一度もないのだ。

「大石くんが、あなたに触れて、弾き飛ばされた……一体、何をしたの?」
 自分を詰問して来る女子生徒は、明らかについ、先刻までの彼女とは違っていた。
「何って……オレは別に……」
 自分が起こした風のせいで、この惨状が出来上がったことは判っている。
 でも、自分がそうしようと思った訳ではないし、ただ、少しだけ……そう、煩わしいと思っただけなのだ。
 大石が世話焼きなのは、知っていた。
 もっと、平気な振りをするべきだったのだ。
 自分の身体が不調だからと、それを前面に出してしまえば、心配するのも道理だ。
「……お前の、具合が悪そうだからって、心配して声かけてやった奴に、何したんだよ?」
 さっきまで、色々話し掛けて来ていた友人も、態度があからさまに変わっている。



 自分を見る、見つめる視線が……とてつもなく冷たく、まるで針が突き刺さって来るような感覚を憶えた。
「……オレは……」
 何もしていないとは言えない。
 自分がやった。
 この教室の惨状も、大石を弾き飛ばしたことも。

「きゃっ!」
 小さく悲鳴が聞こえた。
 立ちはだかった友人の背後で別のクラスメートが大石に近付いて、その容態を見ようとしたらしい。
 その悲鳴に、その場の全員の視線が集中した。

 大石の腕を掴んで、様子を見ようとした女子生徒の手が紅く濡れていた。
 背中をロッカーに預ける形で気を失っている大石に、別の男子生徒が近付いて、一気に引いた。

「……菊丸……何、やったんだよ!?」
「……」
「大石、全身、血塗れじゃねえか!!」

 その言葉に、教室中が騒然となった。
 騒ぎに気付き、教師が教室に入って来て、事態に気付き、慌てたように救急車を呼ぶように近くの生徒に、携帯電話を手渡した。

「保健の先生呼んで来い!」
 いつもは穏やかな教師が、命令口調で近くの生徒に告げる。
 英二は、ただ、その騒然となった教室内で、震え始めた足に、立っていることが精一杯で、身動き一つ出来なくなった。
 事情を、生徒から聞いた教師は、ゆっくりと立ち上がって、英二を見返った。
「菊丸。後で職員室に来なさい」
 静かな教師の声に、返事を返すどころか、頷くことも出来ず、英二は数歩だけ後退った。
 バランスの悪かった机に足を取られて、倒れ込む。
 強かに背中と腰を打ちつけながらも、その痛みを痛みとして感じなかった。

 ただ、英二が感じて居たのは、恐怖だけだったのである。




    ☆    ☆    ☆

「どう言うことなんだ? 菊丸」
「……」
「黙ってちゃ判らんだろう? 話を聞いただけでは、お前が、大石を突き飛ばしたように見えた。実際には何をやったか判らない。……その上で……菊丸は何も答えてくれない。そう言ってるんだが?」
「……」
 どう言えば良いと言うんだ?
 自分には、感情の変化で風を動かすことが出来る。
 でも、今回は感情が動いた訳ではない。
 怒りも落ち込みも何もなかった。
 そう言う時に、風が動くことなんて今までなかったし、これほどの惨事になったこともないのだ。
 第一、風を自由に操れるなんてどうして言える?
 頭が可笑しいと思われて、病院に放り込まれることは目に見えている。
 両親にもずっと隠して来たのに……。
 こんなこと……。

 だけど、何もしていないとも言えない。
 自分がしたことに、間違いはないのだ。

 何も言えず、何をどう言えばいいのか判らず、英二は、ただ、沈黙を守ることしか出来なかった。

「先生、電話です」
 声をかけられて、担任の教師が電話に出ると、二言三言話して、そうして、大仰に頷き、頭を下げながら礼を言った。
 電話を切りながら、英二に向き直り、教師は少しホッとしたように、英二に向かって言った。
「大石は大丈夫だそうだ。怪我の箇所が多くて、血塗れに見えたが、傷そのものは深くなく、本当に浅くついていただけだそうだ」
「……」
 ホッとした。
 身動きしない血塗れの大石は、本当に死んでしまうかと思っていたから。
 ホッとしたと同時に、頭痛が再開した。
 頭の痛みに眉を顰め、頭に手を宛てる。
「菊丸?」
「……今日、朝からずっと……頭痛くて……」
「? 大丈夫か?」
 触れて来ようとした、教師に気付き、咄嗟にその手を振り払った。
「オレに、触らない方がいいよ……先生」
「……菊丸?」
「……確かに、大石を飛ばしたのは俺だし、大石に傷つけたのも、多分オレだよ。でも、そうしてやろうなんて思ったことないし、したかった訳でもない」
「だが……君の席から教室の後ろの壁まで弾き飛ばすことが、君に出来るのか?」
「……」
 英二には、それ以上、何も言えなかった。
 頭痛が酷くなる。
「……頭、痛いんで、帰っても良いですか? オレがいると、どうせ、授業にならないでしょうし……」
「だが……君がやったと言うなら、理由と方法を聞かないと……」
「先生もぶっ飛ばされたいの?」
「……何?」
「今のオレ、多分、触れられれば同じことするよ? この職員室全部、メチャクチャにして、先生は、大石と同じ目に遭うよ? 断言できる」
「……何故、そんなことをしなきゃならないんだ?」
「さあ? 俺自身がしようと思ってする訳じゃないもん」
 英二の言ってることは筋が通らない。
 はっきり言って、支離滅裂である。
「とにかく、帰ります」
 そう言って踵を返し、出入口で一礼すると、英二は教室にも戻らず、そのまま一階の昇降口に向かった。
 今更、教室になんか帰れない。
 何食わぬ顔で、あそこで座っていることなんて出来ない。
 不思議なことに、他に怪我をした人は、いなかった。
 いや、風に煽られる形で、倒れたり転んだりして、どこかにぶつけた程度のものなら、あるだろうが。
 出血しているのは、大石だけだった。
 一体、自分は何をしたと言うのだ?
 それが、判らないから、怖いのだ。
 今回は、無事だった。
 怪我はさせても、命に別状はなかった。
 でも、次は?

 また、同じことがあった時、その次も相手が助かる保証が、どこにある?




 もう、どこにも身の置き場がなかった。
 あの教室に。
 自分にとって、居心地は悪くなかった。
 友人たちと、馬鹿やって、楽しく過ごしたあの場所に。
 もう、自分は戻れない。


 自分はやっていないんだ。と自信持って言えない限りは……。
 そして、根が正直な英二は、それがどうしても言えなかったのである。




     ☆    ☆    ☆

「英二!」
 家に帰ると同時に、聞こえて来た母の声に、身体が居竦んだ。
 仕事場から、慌てて戻って来たらしい。
 着替えてもいない格好で、玄関口に姿を見せた。
「説教なら、後にして。まだ、頭が痛いんだ」
 頭痛は酷くなる一方だった。
 頭のどこが痛いなんて、言えないほど、とにかく、頭が痛くて思考を邪魔する。
「それ所じゃないでしょう! 大石くんに、怪我をさせたって? 病院には行ったの? ご両親に謝罪にも行かないと!」
「……判ってる! でも、今は……無理だよ」
「英二!」
 頬に痛みが走った。
「友達に怪我させて、今は無理ってなに?」
「……」
「頭が痛いからってそれがなんなの!? あなたは、謝罪にも行けない、そんな無責任な子なの!?」
「行かないなんて言ってない! 今は……」
 怒鳴った瞬間に、英二は膝をついた。
 頭が痛い。
 全体が、軋むように痛みを訴えて来る。


 ダメだ。
 このままじゃ、あの時と同じ……!
 大石に対してしたことと、同じことをしてしまう。

 英二は、母を押しのけ、自分の部屋へと駆け込むとドアを閉めて、鍵をかけた。
「英二!? 英二!! 開けなさい!!」
 怒鳴る母の声が、凄く遠くで聞こえるような気がした。
 英二は、頭を抑えながら、そのままベッドに倒れ込んだ。
 そうして、枕に顔を押し付けるようにして、絶叫を上げる。
 同時に、風が巻き起こった。
 部屋の中のものが吹き上がり飛び交って、窓ガラスが割れた。
 その騒然とした物音に、母親が焦らない訳がない。
 風が巻き起こってることなど、母は知らない。
 ただ、英二が意味もなく暴れていると思っているだけだ。

 MDデッキがドアに直撃して、ドアが破れた。
 テレビは壁にぶつかって壊れている。

 狭い部屋の中、教室以上の惨状だった。



 どれくらいの時間が経ったのか。
 英二は、大きく息をついて、起き上がった。
 頭痛はウソのように引いていて、英二は、もう一度、大きく息をついた。

「……な、に……これ?」
 部屋の中はメチャクチャだった。
 兄のものも、自分のものも、何一つ無事なものは、ない。
 心底から、恐怖心が英二を襲った。
 自分では何も意図していない。
 こんなことをしたかった訳ではない。
 なのに――
 厳然たる事実として、この惨状は目の前にある。

「……何で、こんな……?」
 力なく零れた言葉に、何の意味もなかった。
 こんなことをした英二には自覚がないのだ。
 ならば、また、いつ……こんな事態を引き起こすのか、英二には自信が持てなかった。

 この凄まじさ……。
 今回は、大丈夫だった。
 それでも、怪我をさせてしまったことに変わりはない。
 だが、命は助かったのだ。
 殺さなくて済んだ。
 そのことに、心底からホッとした。
 だけど……。

 今度は?
 もし、後一歩、部屋に入るのが遅れていたら?
 母は……どうなった?






 英二は、自分が靴を履いたままなのに気付いて苦笑した。
 ここにも、もういられない。
 だって、この能力で、家族を傷付けてしまうかも知れない。
 そんな恐怖に耐えられる訳がない。

(感情なら、抑えられる。だけど、いつ起こるか、自分にも判らないものを、どうやって抑えろって言うんだ?)

 絶望的な気分で、英二は窓に手をかけた。
 目の前に茂る銀杏の木に、飛び移って、地面に降り立つ。
 子供の頃からやっていたことだ。
 悪戯をして外出禁止を言い渡された時や、試験前に勉強しろと強引に部屋に放り込まれたときなんかに、よくやっていたことだった。


 地面に降り立って、自分の家を見上げた。
 こんな気持ちで、自宅を見上げることなんて、昨日の自分は考えてもいなかった。
「英二?」
 外出していたらしい姉の声が聞こえた。
 焦ったように振り向き、英二は数歩だけ後退った。
「どうしたの? 学校は?」
「……姉ちゃん」
「なに?」
「……母ちゃんに……ごめんって……謝っといて」
 何とかそれだけを口にして、英二は姉の横をすり抜けた。
「え? 英二?」
 呼ばれても振り返らなかった。
 そのまま、どこに行くとも決めないまま、走り続けて、英二は耳を劈くようなクラクションにハッとした。
 目の前に、シルバーの高級車と呼ばれる車が迫っていた。
「……っ!」
 跳ねられる……。
 そう思った瞬間、風が吹き上がった。
「……? な、なに?」
 車が、風に煽られてスピンする。
 そうして、横滑りに停止した。
 風は、直ぐに収まり、英二は訳が判らないまま、その場に立ち尽くしていた。
 車のドアが開き、誰かが下りて来た。
 だが、英二は視線を逸らしたまま、相手を見ようとも思わなかった。
 そのまま、駆け出そうとしたところを呼び止められた。

「大丈夫? 怪我してない?」
「…………ないよ」
「そう。良かった。でも、気をつけた方が良いよ」
「別に……今更どうなったって……」
「そりゃ、君は別に良いかも知れないけど。でも、それで、こっちが人殺しになっちゃ迷惑だからね」
「……」
 聞きようによってはかなり辛辣である。
 英二が無事だったことを喜んでいる訳ではなく、自分たちが加害者にならずに済んだことを喜んでいると言うのだ。

(オレも似たようなもんか……)
 大石の無事にホッとした。
 でも……それ以上に、人殺しにならずに済んでホッとしたのだ。
「じゃあね。菊丸英二くん」
「……え?」
 ハッとして、英二が目を向けた時には、車の後部座席のドアが閉まったところだった。
 窓は開いていて、でも、リムジンの対面式の座席のせいでか、車に乗った人間が見えない。
「そろそろ、帰らないと。海馬くん、Millennium・Palaceに」
「……そうだな」
 車は走り出して、もう声も聞こえなくなった。

「Millennium・Palace?」




 聞いたことはある。
 東京都心にある、国家組織も手を出せない無法地帯。
 悪人や、犯罪者の巣窟に成り果てて、そこに入って帰って来た者はいないとか……。

「オレに、似合いかも知れない」
 そう言う場所なら、この能力も使うことに躊躇いを感じることはないかも知れない。
 それに……。


(何で、オレのこと、知ってたんだ?)


 疑問があった。
 だから、そこに行こうと思った。


 今の英二には、十分過ぎるほどの、ただ、生き続けていくための、最たる目的だったのである。




<続く>


……これは短編でしょうか?(滝汗)
まだまだ、始まったばかり、これからって感じですねー(人事のように;;)

えーっと、英二が社会から弾かれたと書きましたが、英二が弾かれた訳ではなく、自分から出て行った……というのが正しいです。
もちろん、クラスメートの豹変振りも、心の傷になったと思います。
でも、自分が意識してないのに、人を傷付けることの恐怖。
これから、逃げたかったのです。

遠慮会釈なく風の能力を使っても良さそうなMillennium・Palaceに腰を落ち着けてもしょうがないですよね?(笑)

話は、これから始まります。
後、遊戯くんは全てを掌握しています。
彼の持つMillennium・Itemが、ミレニアム・タウクである以上、しょうがないのですよ……(苦笑)