2 傍にいたい

「遅いな……何やってるんだ?」
 大石は、眉間の皺が増えていく手塚を尻目に、小さく呟いた。
「……大石」
「な、何だ? 手塚?」
「明日のルドルフとの練習試合のことはどうなってる?」
「あ、ああ」

 手塚の問いに、大石は「何だ、そのことか」と呟き試合時間と場所についての確認がてらに話始めた。

「あれ?」
 ミニゲームを終えた不二が、不意に声を上げたと思ったら、校舎の方から英二が物凄い勢いで駆け込んで来て真っ直ぐ乾の方に向かったのである。
「英二?」
「何だ? どうした、英二!?」

 英二の慌て振りにつられたように、大石も乾と英二の方に駆けて行く。
 手塚と不二はそのまま互いに顔を見合わせた後、ゆっくりと後に続いた。

「ねえ! 二人の中身が入れ替わったら、どうやったら治るの? 乾なら知ってるでしょ!?」
 捲くし立てるように言う英二の言葉の内容はよく意味が判らない。
「何の話だ?」
「だから、何のじゃなくて! おチビと遊裏ちゃんがぶつかってそれで、落っこちて、そしたら、中身が入れ替わってて、おチビが遊裏ちゃんで、遊裏ちゃんがおチビで……ああもう! だから、どうやったら治る……」
 ぼふっと。
 頭に何かが当たった。
「ってー!!」
 結構な痛みを感じて英二は頭を抑えたまま、その場に蹲って視線だけを背後に向けた。
「オロオロしてもしょうがないじゃん。みっともない」
 口調だけを聞けば、それはどっからどう聞いても、越前リョーマのものだった。
 だが、その外見は、先ほど差し入れを持って来てくれた、高校生の武藤遊裏のもので、その場にいた面々はキョトンと目を丸くする。

「何ですか、遊裏さん? まるで越前みたいな喋り方じゃないッスか!」
 その場の空気を突き破るように桃城が声をかけると、キッと振り返った遊裏はこう言ったのである。
「しょうがないっしょ? オレが越前リョーマなんだし」
「はあ?」
 外見はあくまでも、武藤遊裏である。独特な星型の髪に、金髪の前髪。
 すらっとした身体つきも、身長そのものはそれほど高くはない筈なのに、細身の所為でか、低く感じさせないところも、どこをどう見ても、武藤遊裏そのものである。
 元来、遊裏自身も、鋭い視線を持っていて、怒らせるとどうなるか、桃城は良く知っていた。
 だが、普段は至って、優しい目をしていることも知っている。
 今の遊裏はどう見ても、不機嫌を顕わにしていた。
 いつも以上に目付きが悪く、怠惰に手の指を動かしている。
 ふっと、遊裏が視線を外して、フェンスの方に行くと、赤いリョーマのラケットを手にして、コートに向かった。

「桃先輩。相手して下さいよ」
 ラケットをコートの反対側に指して、そう言う。
「……」
 茫然と桃城は英二を見返った。
 まだ、どこか動揺を顕わにしている英二に、軽く息をついて遊裏の反対側のコートに立ったのである。
 桃城が構えたところで、遊裏はポンポンとテニスボールを地面に何度かついた。
 ラケットは右手。左手で高々とボールを投げ上げて、ラケットがそのボールを叩くと、真っ直ぐにコートに入ってそのまま、桃城目掛けて跳ね上がったのである。

「ツイストサーブ?」
 驚く桃城と、唖然とするテニス部員たちの視線を真っ向から受け止めて、遊裏はラケットを突き出して言った。
「まだやるッスか? 桃先輩」
 あれほど切れのいいツイストサーブを打てる中学生は、そういないと言う。
 顔面すれすれに飛んで行ったボールを目で追って、桃城は肩を竦めてラケットを下ろした。

 ネットの向こうで立つその姿は、どう見ても武藤遊裏にしか見えない。
 だが、その手にラケットを持つ姿が、かなり様になっているのも確かだ。
 テニスを殆どしたことのない、遊裏があんなツイストサーブを打てる訳もなく、ましてや――
「喋り方が違い過ぎるよなー」
 そう言ってネットを越えて、遊裏の傍に近付いた。
「でも、何で遊裏さんが越前なんだよ?」
「さあ?」
 肩を竦める遊裏の行為に、リョーマの面影を見出して、桃城は苦笑を浮かべた。
「何でもかんでも面倒臭そうにしてる遊裏さんってのも……珍しいよなー」
「って、そんな能天気に言ってる場合じゃないんだって!」
 英二が悲鳴に近い声を上げて、遊裏の前に立ちはだかった。
「あれ? じゃあ、越前と入れ替わった遊裏さんは?」
「何だかショックで動けないみたい。鏡の前で茫然としてたけど……」
 英二が言っていると、校舎の方から歩いて来る人影が見えた。

    ☆    ☆

「問題は……これからどうするかってことだと思うんだけど」
「こう言う場合、もう一度同じことをすれば、元に戻ると言うのが、通説ではあるな」
「え?」
「また、落ちるのか?」
 物凄く嫌そうに遊裏の姿をしたリョーマと、リョーマの姿をした遊裏が言った。
「いや、こう言う場合のセオリーでは、わざと落ちた場合、わざとでは効果がないのも通説だ」
「何それ?」
 乾の言葉に憮然と言い返す遊裏……ではなく、リョーマは、その場から離れようとした。
「おチビ! どこに行くんだよ?」
「どこって、喉渇いたし。ファンタでも飲もうかと思って」
「……何で、おチビってこう言うときでも能天気なのさ!? そんな場合じゃないだろう!?」
「ジタバタして状況が変わるならそうしてもいいけど。今何しても意味ないんじゃ、ジタバタするだけ無駄っしょ?」
 確かにリョーマの科白として聞けば、頷けるものでも、外見が遊裏では似合わないことこの上ない。

「でも、一番問題なのは、明日の練習試合じゃないか? 越前はオーダーに入ってただろ?」
 不二の言葉に、その場の全員が顔を見合わせ、視線がリョーマである遊裏に向けられた。
「オレは、テニスなんて出来ないぜ?」
 当然の答えを返す遊裏に、克也とリョーマ以外の全員が、脱力したような溜息をついた。
「……な、何だ?」
 キョトンと問い掛けるリョーマの『姿』もいつも以上に、愛想が良く見える。
「いや、何でもないですよ」
 誤魔化すように不二が言って、手塚を見返った。
「どうする? オーダーから外すにしても試合会場には、来ていて欲しいところだけど」
「……」
 黙ったままの手塚に不二は肩を竦めて、遊裏の方を見た。
「もちろん、試合に出てくれとムチャは言いません。ただ、試合会場……明日はここですが、来てくれませんか?」
「……来るだけなら構わないが……でも……」
 そう言って、遊裏は背後にいる克也の方を見返った。
「それもそうだけど。今夜はどうすんだ?」
「あ」
「……オレの家に泊まればいい」
 リョーマがアッサリとそう言って、遊裏に目を向けた。
「ただ、ユーリがオレの振りしなきゃいけないけど。でも……別にばれてもどうってことないと思うけど」
「……あの親父さんなら返って面白がるよなー」
「いえてる」
 頷きあうリョーマと克也を尻目に、遊裏は困ったように眉根を寄せた。
「あ! あの……明日は、オレ、相棒と約束があったんだ……」
「え?」
「来週、杏子の誕生日だから、一緒にプレゼントを買いに行こうって」
「ああ、そうか。8月18日だったっけ?」
「そう。いつも迷うから、オレも一緒にって頼まれたんだ」
「でも、18日ならまだ日にちがあるっしょ? ずらせないんですか?」
 桃城の問いかけに、遊裏は肩を竦めた。
「海馬が明後日から休みになるとかで、一緒に旅行するらしいんだ。杏子の誕生日の前日に帰って来るらしいが、それじゃプレゼントを買う時間はないだろう?」
 ちなみに、お土産はプレゼントにならないって良く判らないことを言ってたから、と付け加えた。
「要するに、あれだ。遊戯は遊裏と一緒に杏子の誕生日プレゼントを選びたいんだよ」
 克也が纏めると、その場の面々は納得したように頷いた。
「遊裏さんの姿をしている越前くんにいてもらっても、向こうが信じるかどうか微妙だしね」
「でも、プレイ姿を見れば何とかなるんじゃないか?」
 不二の言葉に、河村が答えると、乾が首を振って口を挟んだ。
「今さっきみたいに、ツイストサーブを打つだけなら何とかなるだろう。だが、元々遊裏さんの身体はテニスをするための筋力も、体力もついていない。越前自身はもっとやれる、できると思っても身体の方に拒絶反応が出る可能性が高いだろう。下手をすれば肉離れや捻挫を起こしかねないし、越前のプレイスタイルから遊裏さんの身体が耐えられるとは思えないな」
 シンッと静まり返る中で、不二がリョーマの姿をしている遊裏に向かって頭を下げた。
「明日までに元に戻れなかったら、そこに居るだけで良いので、来てくれませんか?」
「……」
 不安げに遊裏は克也を振り返った。
「オレは、明日バイトだからなー……。遊戯や杏子にも事情話して来て貰えよ」
「あ、ああ……そうだな」
 どこか、淋しげな表情で遊裏が言うと、いきなり横合いから抱きつかれて、その反動で前に転びそうになってしまった。
「英二……」
 傍でその光景を見ていた克也は、呆れたように声を上げる。
 その声にハッとしたように英二はリョーマの身体を離して、飛び離れた。
「び、ビックリした……」
「ご、ごめ……や、おチビが淋しそうにしてるように見えて……ああ! おチビと遊裏ちゃんが入れ替わってることは十分……」
 慌てて言い訳を並べる英二に対して、遊裏の姿をしているリョーマも怒るに怒れず、ムッとしたまま、踵を返した。
「ああああああっ! ねえ、おチビ、どこ行くの!?」
「どうせ、オレ練習できないし。帰るんすよ」
「って、ええー?」
 慌てたように手塚を振り返るが、手塚は軽く息をついて頷いた。
「しょうがないな。今日のところは、城之内さんに任せるしかあるまい」
「え? オレ……?」
「……越前のこと、頼みます」
 頭を下げられては、それ以上何も言えず、克也は頭を掻いて溜息をついた。
「そりゃ、身体は遊裏のものだしな。……オレに出来ることならとりあえずは何とかするさ」
 そう言って、リョーマの姿をした遊裏を振り返った。
「遊裏も今日はいなくても良いんだろ?」
「そうですね。……越前の家に戻るにしても、越前の姿をしている遊裏さんがいないと説明が難しいでしょうし」
 手塚がそう言って、部室で着替えて帰るように遊裏に向かって言い、リョーマの方に部室へ案内するように言った。
 黙って頭を下げてコートを出て行くリョーマに、英二が後を追おうとするのを、手塚が遮って止めた。
「菊丸。お前はまだ練習が残ってる」
「でも!」
「何のために城之内さんに頼んだと思っているんだ」
「……そうだけど」
 『克っちゃんは信用出来る』と十分判っている。
 だが、それでも一緒にいて上げたいと思うのだ。
「明日の練習試合に備えて今日は、早めに上がる。後少しだ。ちゃんと練習しろ」
「……英二」
 大石に肩を叩かれて、英二は仕方がないと言う風に溜息をついた。
「練習が終れば越前の家に行けば良いさ。そんなに大して時間がかかる訳じゃない」
「そうだね……。練習に集中すればあっと言う間かもね」
「だろう? さ、練習に入ろう」
 先に立って大石が歩き出す。
 それぞれがコートに散り始めたのを、英二は立ち尽くしたまま見送っていた。
「……グラウンド100周でも何でも良いよ。でも、オレは……おチビの傍にいる!」
「英二!」
「菊丸!」

 背後で自分を呼ぶ声が聞こえた。
 それでも足は止まらずに部室に向かったのである。