3 手の上のキス
 丁度、着替えを終えた遊裏とリョーマ、それに克也が部室から出て来て、英二は足を止めた。
「おチビ!」
「……エージ先輩?」
「オレも一緒に帰るから、待ってて」
「え? でも、先輩……明日の試合出るんでしょ?」
「そうだけど! でも、今のおチビ放っとけないし!」
 練習していてもきっと身には入らない。
 それでも、練習するべきだと判っていても、制御出来ない自分はまだ、子供だと痛感した。

「それで良いのかよ? 英二」
「克っちゃん?」
「んな調子だったら、明日試合しても負けんじゃねえの?」
 反論しようとして出来ずに、英二は黙り込んだ。
「……リョーマの傍に居たい気持ちは判るけど……。それでお前が実力出せなかったら、リョーマが気を悪くすると思わねえ?」
「そ……だけど……」
「別に何も心配することないさ。これから、遊戯に連絡してこっちに来て貰うし。まあ、あれだ。リョーマより、遊裏の方が心配だからな」
 深々と溜息をつきながら克也が言うと、遊裏が憮然とした表情で言った。
「どう言う意味だ? 克也」
 そんな遊裏に苦笑を返して、克也は携帯電話を取り出した。
「もしもし、ああ、遊戯? 今どこにいる?」
 無事に遊戯に繋がったらしく、克也が電話で話をしている間に、英二はリョーマの姿をした遊裏の前に立った。
「な、何だ?」
「何かさ、前から思ってたけど、遊裏ちゃんって姿勢良いよね?」
「は?」
「背筋がビッとしてて、立ち方が何か違うんだよねー。おチビって、普段はこう、だるそうに立ってるから」
 笑いながら言う英二にそれを聞いていたリョーマが、今度はムッとする。
「どうせ、オレはユーリみたいに、姿勢良くないッスよ」
「べ、別におチビの姿勢が悪いなんて言ってないじゃん!」
「そう聞こえた」
 互いに睨み合って、ここでいつもなら軽い言い合いに発展するのであるが……。
「……」
 思い切り盛大に溜息をついて、英二がリョーマから視線を外した。
「……エージ先輩?」
「ダメ」
「は?」
「外見が遊裏ちゃんだから、何か気が削がれるってか何て言うか……」
 呆気に取られたようにそんな英二を見ていたリョーマは、ふっと視線を逸らして呟くように言った。
「馬鹿エージ」
「……遊裏!」
 電話を終えた克也が振り返ってそう呼んだ。
 だが、その視線は一度リョーマの方を向いていて、遊裏は思わずムッとしてしまう。
「っと、遊裏はこっちだっけ?」
 自分の前に立った克也を見上げて、ムッとしたままの遊裏に、キョトンと目を丸くした。
「どうした?」
「別に……」
「……遊戯がすぐに来るってよ。取り敢えず、リョーマの家に行ってるって言っといたから」
「……」
「遊裏?」
 無反応で背中を向ける遊裏に、克也が問い掛けた。
 だが、やはり返事をせずに、歩き出す遊裏の肩を、克也は強引に掴んで引いた。
「遊裏!」
「……何だ?」
「なんだじゃねえだろ? 何で無視すんだよ?」
「……別に」
「別にじゃねえ!」
 自分の方に向き直らせて、遊裏の両肩をしっかり掴んで、正面から見合わせる。
「ちょっと間違えただけだろ? それが嫌だったんなら、ちゃんと言えよ」
「だから……別にって言っているだろう?」
「じゃあ、何で呼んでんのに無視するんだ?」
「……それは」
 言いよどむ遊裏に克也は焦れたように、右腕を遊裏の腰に回して、軽く抱き上げた。
「克っちゃん……?」
「カツヤ……?」
 茫然とするリョーマと英二の目の前で、克也が遊裏の唇に口付けた。
「!!!!!!!!」
 声にならない叫び声を上げたのは、当然英二で、思い切り克也に掴みかかっていた。
「何すんだよ!? 中にいるのは、遊裏ちゃんでも、身体はおチビのなんだよ? 克っちゃんだって、オレが遊裏ちゃんのおチビにキスしたら、怒るだろう!?」
「ってーな……。これがオレの気持ちってことだよ」
 克也が遊裏から身体を離したとき、克也の左手は遊裏の唇を塞いでいた。
「……へ?」
「キスしたいけど出来ねえから、オレの手越し」
「…………………」
 唖然と目を見開くリョーマと英二を放って、克也はもう一度、遊裏に視線を向けた。
「さっき、一瞬でも間違えたことで、気分悪くしたんなら謝る。でも、オレは例え、お前がリョーマの中に入っててもお前にキスしたい気持ちはちゃんとここにあるんだ」
「……馬鹿克也」
 俯いて、小さく呟いた遊裏の言葉に、克也はそっと抱き締めて、
「それも知ってる」
「……ホントにバカだ……」


「エージ先輩?」
「……何か物凄いジレンマ感じる。ねえ、おチビはここに居るのに、目の前でおチビが抱き締められてると思うと……うぅ〜」
「この姿じゃ、好きじゃないッスか? エージ先輩は……」
「……んな訳ないじゃん!! おチビはおチビだって!」
「……」

 リョーマは眉間に皺を寄せたまま、それに答えることはせずに、克也たちの方に向かって駆け出した。

「先輩は、さっさと部活に戻って下さい。明日、情けない試合したら、本気で怒るッス!」
「……おチビ……」
 結局、英二はリョーマの言葉に逆らうことは出来ず、グラウンド100周かなーなどと、呟きながらコートに戻って行った。

「リョーマ」
 自分の顔をした別の人間が、自分を呼ぶ。
 何だか滑稽だと思いながら、リョーマは遊裏に視線を向けた。
 克也は駐輪場にバイクを取りに行っていてこの場にはいなかった。
「克也が、リョーマの姿になったオレにもああなのは……少し違うが、元々オレは魂だけの存在だったから……。相棒の身体を借りて存在しているだけだったから……。それでも、克也はオレのことを好きだと言ってくれた。だから……この状況でもあんな風に言えるんだと思う。第一、さっき一瞬とは言え、克也だって間違えたんだぜ!」
 遊裏の言い方にリョーマは思わず吹き出した。それから続けて、
「経験値の高さってこと?」
「……そうだな。だから、慣れない英二を責めるなよ?」
「……………」
 リョーマはジッと自分の姿になっている遊裏を見つめて、頷いた。
「……とは言っても、オレと相棒は顔つきが全然似てなかったけどな」
「オレはそんな表情で笑わないッスよ?」
「……」
 自分の頬に手を当てて、動かしながら、どこか照れたように苦笑を浮かべて遊裏が言った。
「そうか? なら、リョーマもオレとは違う表情をするはずだぜ?」
「……そッスね」

 何だか変なことになってしまったのは確かである。
 だが、拗ねてみたところで、状況は打開できる訳ではない。
 ならばどうするか。

「滅多に出来ない体験を楽しむのもありッスね?」
「そうだな」
 ニコリと柔らかく微笑む自分の姿と言うのは、何だか見ていて恥ずかしいものだ。
「待たせたな」
 声が聞こえて二人は振り返った。
 さすがに三人乗りは出来ないので(やろうと思えば出来るそうだが)、克也はそのままバイクを押して行く。

 これから、リョーマの家に行って、菜々子や、南次郎と倫子に、説明することも考えなければならない。
 家族にウソをついてもきっとばれるに決まっている。
 そして、遊戯。
 明後日から海馬と旅行に行くと言う遊戯だが、こんな状態の遊裏を残して行けるかどうか。
 となれば、必然――海馬が難癖つけて来ることも請け合いだ。

「でも、来週までには元に戻ってないと」
「……来週?」
「来週から全国大会。来週の金曜日から……」
「……」

 顔を見合わせた三人は、盛大に深々と溜息をついて、再び、越前家に向かって歩き出した。