4.信じてるから |
「あ、遊裏さん、遊戯さん。おはようございます」 背後からかかった声に、遊裏は振り返った。 不二と桃城が、それぞれテニスバッグを持ってこちらに向かって歩いて来る。 「あれ? 越前はどうしたんですか?」 リョーマの姿をしている遊裏に問い掛けて来るのは何だか変な感じがする。 「まだ、起きないんだよ。熟睡しちゃってて。目覚し時計抱き込んで眠ってたね」 「……ああ。色々疲れてるんじゃないか?」 「でも、条件は遊裏さんだって同じじゃないですか? 越前のは、単に気が抜けてるんですよ。今日の試合、出ることなくなったから」 「試合の日でも寝坊してたじゃないッスか。あまり関係ないんじゃなっすかね?」 「ああ、そう言えばそうだね」 不二と桃城のやり取りを聞きながら遊裏は正門の中へと足を踏み入れた。 「おっはよーん!」 元気な声がさらに背後から聞こえて来て、振り返る。 英二は真っ直ぐにこちらに向かって来ていたが、隣に遊戯がいるのを見て、まだ元に戻っていないことに気がついた。 「遊裏ちゃん、おはよ」 「ああ、おはよう。英二」 部室に向かって着替えると、コートに向かう。 既に、手塚と大石は来ていて、一年や二年の部員たちが、準備を始めていた。 「オレも行った方が良いのか?」 問い掛けて来る遊裏に、不二が首をかしげて、 「でも、何をすれば良いのか、判らないでしょう?」 「あ……」 「遊裏くん。無理はしない方が良いよ」 「……そうだな」 時間が来て、練習試合の相手である聖ルドルフ学院のテニス部が到着して、コート内は一際賑やかになる。 「あれ? 前に貰ったオーダーでは越前くんがシングルス2でしたが、代わられたんですか?」 ルドルフ学院のブレインとも噂される観月はじめが、今渡されたオーダーを見て不思議そうに問いかけて来た。 「ああ、ちょっと事情があってね」 大石が誤魔化すように言うと、観月の後ろにいた不二裕太がリョーマの方に向かって歩き出した。 「よう、越前」 「……?」 「やあ、裕太。久しぶりだね。夏休みも帰って来ないつもりなのかい?」 「……別に。部活あるし……」 「……ふーん。残念だなー」 「ってか、兄貴。オレ、越前に話し掛けてるんだけど?」 リョーマの前に陣取って裕太に話し掛ける不二を見つめて、遊裏は視線を英二の方に向けた。 「ああ、アイツは不二裕太。不二の弟なの。前に都大会で、おチビが戦った相手でもあるんだよ」 「……それは……どうすればいいんだ? リョーマの振りなんて……出来ないぜ、オレ……」 「大丈夫。ただ、無愛想に単語だけ喋ってれば良いし」 「は?」 「『さあ?』とか『別に』とか『関係ないし』とか……まあ、その辺は臨機応変に……」 言いかけて、目の前の遊裏を見つめてガックリと肩を落とす。 「そんなに固くなってちゃ意味ないし」 「は?」 「遊裏くん、身体ガチガチ」 まるで全身硬直しているように、直立姿勢のままなのである。 「さて、そろそろ始めようか」 手塚の声が聞こえて来て、それの観月が頷いた。 ――ダブルスの試合、二試合が同時に始まった。 ☆ ☆ 「あれ?」 目が覚めた瞬間、リョーマは弾かれたように飛び起きた。 「ヤバ……今日、試合……」 そう言って、バタバタと洗面所に駆け込んで、ハッとした。 鏡に映る姿は、自分のものではなく、遊裏のものだった。 「まあ、はかない望みだけどね」 用を足して、廊下に出ると、菜々子と鉢合わせた。 「おはようございます、リョーマさん」 「おはよ」 「学校に行かなくて良いんですか?」 「行ってもどうせ、試合出れないし」 拗ねたように言うリョーマに対して、菜々子は目を丸くした後軽く吹き出した。 「菜々子さん……」 「そんなに拗ねないで。今日の朝ごはんは、和食ですよ」 「……」 その言葉に、リョーマは傍目にはよく判らないが、喜んだらしく足取り軽く台所に向かう。 「お味噌汁温めなおしますね」 菜々子も慌ててその後を追って、早足で向かった。 結局、朝食を食べたあと。 何もすることはないし、試合の結果は気になるしで、リョーマは学校に向かうことにして、家を出た。 服は、遊裏が着ていた服ではなく、制服のワイシャツとズボンを履いて外に出る。 「ちぇ……やっぱりユーリの方が背が高いんだ」 少しだけ裾が上がってしまったズボンと、何気にきつく感じるワイシャツに憮然となった。 毎日学校に向かう道を、いつもと同じように歩いていただけだった。 全く、何の予兆もなく……リョーマは隣に並んだ車に不思議そうな視線を向けた。 それは、こんな住宅街でのスピードにしても遅すぎたからだ。 自分と並列に並んで抜いて行かない車の速度に疑問を感じた。 と、思った瞬間。 いきなり、車の後部座席のドアが開き、腕を掴まれたかと思うと、車の中に引きずり込まれた。 咄嗟の出来事に声を上げることも出来ないまま、リョーマは反射的に自分の胸元に手を当てていた。 そこにあった金属製の感触。 思わずそれを握り締めて、強く引っ張った。 細いチェーンは、何度か引っ張ったら切れて、地面に落ちる。 それを音で確認したリョーマは、抵抗することを止めて、視線を車の中に向けた。 軽自動車でも、後ろにもドアがある4ドアのタイプで、人数は三人。 今、自分を抑えている人間と、車を運転している人間。それに、助手席に1人いた。 目立たないようにだろうか? 黒い服を着ているが、この白昼では、はっきり言って目立つことこの上ない。 ツンと鼻をつく臭いがしたと思った瞬間。 リョーマの意識は闇に落ちた。 (エージ……) それでも、心の奥底で……ただ一人大切な人のことを想っていた。 ☆ ☆ 「英二!」 背後から大石の声が聞こえた。 ハッと気がつくと目の前にボールが見えて、慌ててラケットを顔面に翳した。 物凄い衝撃を食らって、整っていなかった体勢と気持ちのせいで、背後に飛ばされてしまった。 「英二!? 大丈夫か?」 大石の声が聞こえて、差し出される手に、幻を見た。 『エージ……』 「おチビ?」 「英二?」 フェンスの外に視線を向けても、リョーマの姿はない。 否。 姿だけならば、今もフェンスの向こうで心配そうに自分を見ている存在がある。 でも、あれはリョーマではない。 「おチビ……」 試合中であるため、出て行くことは、英二には本能的に出来なかった。 たとえ、リョーマが気になっても、試合を放棄することだけは出来ない。 それは、英二に取っての譲れない唯一の信念だ。 ましてやダブルス。 今、自分が試合を放棄すれば負けるのは、英二だけではない。 一緒に戦っているパートナーの大石まで負けることになるのだ。 「大丈夫か? 英二。越前がどうかしたのか?」 「……いや。何でもないよ。うん。オレはおチビを信じてるから」 信じてる想いが免罪符になるとは思えない。 それでも、今出来ることはそれしかない。 それに―― (試合放棄したり、負けたりしたら、おチビが怒るに決まってるじゃん?) 気を取り直した英二は、大石に向かってピースサインを出して、もう大丈夫だと合図した。 頷きを返した大石は、サービスラインに下がって、サーブをするために構えをみせた。 英二は、前を見て……。 一度目を閉じ……意を決して目を開けた。 後は、もう何も考えることはせずに、試合に集中するために……。 全ての報せが届いたのは、全試合が終了した後だった―― |