偶然その光景が視界に飛び込んできたとき… 手を伸ばせば届いていた人が、 なんだかとても遠くにいるように思えた。 自分にだけじゃないと、完璧に突きつけられたはずなのに、… まだどこかで期待してたのかもしれない。 そんな自分が。 何だか女々しくて、可笑しくて。 でも… はっきりと見てしまったら、認めるしかないんだと思った。 ―ああ、勘違い。 |
そっけなくなったあのコに、 頭の中で今までの自分の行動を辿ってみた。 何かやってしまった…と思ったから。 でも、いくら考えてみても何にも思いつかなくて。 あのコの事を一番わかってあげられるのは自分だって、 絶対の自信があったけど、 …実際は俺が勝手に思ってただけだったのかな。 なんか… 今まで持っていた自信がガラガラと崩れ落ちそうな不安を抱いた。 バカみたいに皆の前で抱きついたり、牽制したりしてさ。 俺が想ってるのと同じくらい、 あのコも想ってくれてるってのは、 俺だけが思ってた大間違いだったのかな。 俺を見てくれない瞳で、他のヤツを映す。 …もう、どうしよう。 ―泣きそうだ |
がんじがらめのエトセトラ<中編> |
「英二、どうしたの?」 三年六組の教室でカバンに教科書を詰め終わった不二は、いつまでたっても席を立つそぶりを見せない親友に気づいて遠慮がちに声をかけた。 「早くしないと」 動こうとしない菊丸の代わりに――といっても彼は机に教科書を置きっぱなしなので――最低限必要と思われる筆記用具やノートだけテニスバッグに入れ、チャックを閉める。 「ほら、行くよ」 机に突っ伏してる菊丸を促して立たせると、バッグを持たせて背中を押した。 渋々不二に従って教室を出るが、その双眸はどこか遠くを見ているようでもあり、そんな彼に…らしくないなと訝しむ不二。 思えば、朝練の途中からおかしくなった親友の態度。 部室に入ってきたときは、いつも通り元気いっぱいでジョークさえ交わす余裕もあったのに。 全員揃ってコート練習を始めたあたりから、笑顔がだんだん減っていった。 練習中は真剣にボールを追っかけているのに、今朝はボールじゃなく別の方に意識があったようだ。 彼の視線の先を辿るのは楽だけど、休憩中でも無いのにこんな状態になるのは稀なこと。 練習は真面目なのに。 ラリーをしても心ここに在らずな菊丸にカミナリが落ちるのは当たり前な結果。 朝っぱらからランニングを命じられ、20周走ったというのに。 コートに戻ってきた後も、見つめる対象を変えなかった。 「今日は図書委員で遅れるって」 「!」 歩きながもうな垂れていた頭をパッと上げ、不二の台詞に反応を示す。 主語が無くとも伝わる言葉。 親友を見つめる瞳には、色んな感情が織り交ざっていて。 どうして? そんなの聞いてない。 当番は別の曜日のはず。 なんで? 俺は知らなかったのに。 どうして知ってる? 疑問は次々と湧き出てくるのに、どれから聞いていいのか整理がつかない。 菊丸が今にも食って掛かりそうな気配を放ち、でも少し戸惑いを意気消沈ぎみの顔に浮かべたため、今の彼には正直に言ってあげた方がいいだろう…と、ふんわり笑って落ち着かせる。 「朝、手塚に言ってたんだ。――蔵書整理があるから、一時間くらい遅れるって」 正確には、今月入荷する新書が届いたので、本をすべてチェックしてから配置する作業があるため遅れるらしい。 図書委員全員参加が義務ではなく、司書の先生が指定した生徒は強制参加が言いつけられた。 別名・図書室司書の定めるブラックリストである。 今期の図書委員は割と真面目だったり、落ち着いた本好きの生徒が多いためブラックリストに載る人物は皆無かと思われたが…そこは、男女あわせて66人もいるため、中にはサボリがちな生徒や、女子にまかせっきりな困った男子生徒もいたりする。 図書委員をしている一年レギュラは、不真面目な生徒では無いのだが… 困ったことに、委員会や当番を忘れる傾向があった。 そのため、見事ブラックリストに載ってしまい、事あるごとに司書の先生に呼び出され部活に支障のない範囲で小間使いのような役をさせられている。 今回のような新刊整理。 本を返さない生徒への通告(本来生徒の担任に注意するのだが、司書は図書委員に直接向かわせている) 廃棄する本の運搬。 などなど。 一番仕事をしてるんじゃないかと抗議しても、『委員会にこないのが悪い!』と取り合わない司書には適わない。 よって、越前は今や図書委員長含むすべての図書委員にその名を覚えられた一年図書委員である。 「昨日昼休みに委員会があったのに、またサボったんだって」 そのせいで、今日の整理に駆り出されたみたいだよ? しょうがないねぇ… 忘れっぽい一年を想いヤレヤレと微笑む不二だが、このまま部室に行っても彼に会えないままじゃ親友の元気が戻らないだろうことを思うとどうしたらいいのかわからない。 図書室に行けば? 提案することは簡単だが、たった一時間会えないからって部活をサボらせるのはどうかと思う。 そんな事をしても、本当に親友のためにはならない。 全国を目指す練習を疎かにすると目に見えているのに、勧めるのは。 メンタルが大きく試合を左右すると言われるスポーツにおいて、コントロールできないようじゃ勝ち星は狙えない。 『おチビが足りない』 なんて騒がれても、そんなのははっきり言って甘えだ。 試合当日に越前がいなければ、ダブルス1は黒星か? 何かあるたびにヘコんでるのを隠さない菊丸。 だが、いつもなら練習にまで反映させない。 だから。 今日みたいなのは、数少ない例外。 以前にも何度かあったことだが、その時の彼は部活に身が入らなくて散々だった。 グラウンドを何周走らされたのか、両手両足使っても数え切れない。 部活を抜け出してまで原因に会いに行くことで、元に戻っていたけれど…その度に、 『もっと強くなんないと!』 と、今後一切部活に落ち込んだ気分を持ち込まないと親友に誓う菊丸。 不二としては、いいかげんその台詞を聞くのに飽きてきた。 まったく成長をしないのか。 今までは『会いに行けば?』と背中を押していたが、いつまで経っても学ばないとなれば話は別。 今後は無理にでも部活に引っ張っていく。 菊丸と同じコンディションでも、一年の彼は部活に支障をきたさない。 アクロバティックの冴えない菊丸を尻目に、キレのあるサーブをどんどん決める越前。 そんな彼に、悔しくならないのか。 自分が情けなくならないのだろうか。 確かに菊丸が越前を特別に想っていることは日々の惚気を聞くと嫌でもわかる。 だが、想うだけでいいのか。 彼のプレーに満足するだけでいいのか? メンタルを引きずらない越前を目の前に、落ち込んでいるからといってプレイに集中できないでいいのか。 こんな菊丸は、やはりどこか甘えているんだと思う。 厳しいと非難されようと、親友だからこそ言える言葉。 菊丸が越前に置いていかれないように、後ろからそっと手を差し伸べることも必要だろう。 例えそれが、親友にとってキツイことでも。 「朝みたいだと、また走らされるよ?」 やんわりと注意する不二に、不満げに顔を顰める。 大きなお世話だとでも言うつもりだろうか、ブスくれたまま早歩きで廊下を突き進む。 「…出たくない」 ボソリ呟かれた言葉は、やはりといっていいのか今の菊丸の気分を代弁していた。 「休むの?でも駄目だよ」 「…」 「レギュラがそんなんでどうするの」 「…だって」 「だっても何も無いよ。怪我してるならともかく、ぴんぴんしてるのに」 「心のケガ」 「問題外」 「…今日は厳しいのね」 「英二が甘えすぎなだけ」 「ンだよ〜」 ちぇ。 ふてくされて歩く菊丸の後姿を眺め、不二はため息ひとつ。 「あ〜、愛が欲しい!」 突然止まり、叫んだ菊丸にため息は二つに増える。 「貰ってるでしょ?」 呆れ顔で返すが、親友は力なく頭を振り… 「おチビはくれないもん」 『はぁ〜』と、盛大に肩を落とす。 「そうは見えないけど」 「朝練ムシされた」 「気のせいじゃない?」 「近づくと逃げる」 「…」 「しかも『菊丸先輩』って言われた!」 いつもは名前で呼んでくれるのに、今朝は名字。 「英二…何かしたの?」 理由を聞くつもりは無かったが、今の菊丸の様子からして聞いてあげないと前に進まないだろう。 問答無用で部活に引っ張っていこうと思ったが、そうもいかないらしい。 何かとこちらを伺って聞いてほしそうな視線を向けていた菊丸を無視すること6時間。 そろそろ限界のようだ。 「不二ィ〜」 ぱっと顔をあげると、心配そうに自分を見つめる不二に抱きついた。 「どうどう」 「馬か!」 「はい、それでどうしたの?」 「…」 「英二?」 「うぅううう」 「言ってくれないとわかんないよ」 とりあえず離れようね、と抱きつく菊丸を剥がそうとするが、思いのほか強い力を込めている上離す気が無いようだ。 放課後とはいえ、まだ廊下には生徒の影がちらほら。 興味津々といった視線を隠さず、有名な三年テニス部二人に注いでいる。 菊丸はまったく気にしてないようだが(というか気づいてないのか)、不二としては見世物になるつもりはない。 剥がせないのならしょうがない。 張り付く菊丸をそのまま引きずって、すぐ近くの視聴覚室に向かった。 幸い鍵はかかっておらず、ドアを開けて中に入ると菊丸を座らせる。 自分も隣に座って、本日最大級の落ち込みを見せる親友に一声かけた。 「で、どうしたの?」 視線を床に固定したまま、ゆっくりと話を始めた。 「…俺、何がなんだかわかんない」 そう締めくくると、机に突っ伏した。 対する不二は、何となく菊丸を悩ます一年の行動理由を察して気持ち朗らかになる。 これは菊丸がいけないだろう。 本心を言えばいいものを、下手に言い訳して誤解させたのだから。 まぁ、彼の性格上ズバリ本音を言えるものでもないが。 付き合いだすとかなりオープンになるくせに、その道のりまではかなり奥手なのだから。 「不二ぃ、何で笑ってンだよ〜」 親友が困っているというのに、笑うとは何事だ! 軽く机を叩く菊丸だが、不二は笑みを崩さず問い掛ける。 「英二は何で越前にそう言ったの?」 「言ったって?」 「『越前だけに抱きついてるわけじゃない』って。確かに抱きつくのは英二のクセみたいな物だけど、最近は無いでしょ」 前は自分を含めしょっちゅう菊丸の『抱きつき』にあっていたが、三年になってから滅多にない。 今日みたいに落ち込んだ日や、反対にすごく機嫌がいい日は抱きついてくることもあるが、特に部活中にされることはまずないのだ。 一人を除いて。 「だってさぁ」 「じゃあ、何で英二はいつも越前の所に飛んでいくの?」 「だから…」 「越前だけじゃないって? ―でも、僕の知る限りここ最近は越前だけだよね」 「不二〜」 「言っとくけど、お見通しだよ」 「うっ…」 「素直になった方がいいと思うけど」 「ううう」 「だいたいバレてないと思ってたわけ?あんなにあからさまなのに」 「…」 「知らないのなんて、越前くらいじゃないの?」 「…そんなにバレバレ?」 「英二は態度と顔にすぐ出るから」 クスと微笑まれると、観念したかのように顔をあげる。 「好きなんでしょ?」 『好き』 あっさり言われると、越前相手に躊躇した自分の立場がなくなる。 リスクを考えて引っ込めた言葉なのに、親友の前ではそんな壁も姿を消すようだ。 「ああ、好きだ! ―好きで好きでどうしようも無いくらい好きだ!! 俺も何でかわかんないけど、すーきーだー!!」 両拳をぎゅっと握って立ち上がると、防音が聴いている視聴覚室全体に響き渡る大声で叫んだ。 清々しいほど潔く言い切った菊丸に、 『もう少しかな?』 背中を一押しする。 「それを、本人に言わないとね」 と、言われても、簡単に言えるのだったら苦労しない。 だが、リスク云々悩んでおきながら親友相手には迷わず言えた本心。 「大丈夫だよ」 ぽんぽんと菊丸の背中を叩いて、不二も立ち上がる。 「英二がちゃんと言えたら、越前の機嫌も元通りになる」 「えぇ〜…でも」 「信じなって。僕の予想、外れたこと無いでしょ?」 「…だけどさ」 「ウジウジ悩むなんて、らしくないよ」 「ん…そだね。よし!当たって砕けろだ!!」 「砕けちゃ駄目じゃない」 「そ、そうだった」 エヘヘと笑う菊丸からは、先ほどのどんよりしたオーラが払拭されている。 解決法を見つけたためか、本来の気性に戻ったようだ。 まったく。 不二や、その他友人の言葉は素直に聞くくせに、自分では一向に前に進めない菊丸を『しょうがないなぁ』と呆れつつも、どこか安心する部分もある。 気分は母親だろうか? 何となく大石の気持ちがわかる一瞬でもあった。 「ふ〜じ!ありがと。大好き!!」 再び抱きつかれた腕の中で、コツンと自分より少し高い位置にある頭を軽く叩く。 「言う人が違うでしょ?」 『越前に言わないと』 そう目で告げると、椅子を戻してテニスバッグを背負った。 慌てて菊丸も自分のバッグを背負い不二の後を追い、視聴覚室を出た瞬間生徒玄関へ続く階段ではなく別方向に進もうとする――――が、 行こうとした瞬間、不二にしっかり首を掴まれた。 「不二?」 いつもなら、図書室に向かう自分を止めたりしない。 むしろ部長に言い訳をしてくれるし、行ってきなと背中を押してくれる。 しかし。 「これからは甘やかすの止めたから」 にべもなく告げると、『ほら、部活部活』と菊丸の襟足を掴んだまま階段をおりる。 酷い! ギャアギャア文句を言われようが、不二は手を離さずすき進む。 だいたい、理由を聞いて道を示してあげただけでも十分甘やかしてると思う。 本当なら無視して部活に引っ張るところだったのだから。 でも、それでは可哀想と思ったから視聴覚室に連れて行ったのだ。 予想通り復活の早かった菊丸だが、これでまた図書室へ向かうのを黙認したら今までと何ら変わりないではないか。 「あ〜もう、うるさいよ」 「冷たっ!」 「どうせすぐ戻ってくるでしょうが」 「今すぐ会いたいの!!」 「今行っても仕事の邪魔になるだけ」 「酷っ!」 「僕の手を振り払って行くなら止めないけど…」 「そんな強く掴まれて振りほどけるか!」 「手塚に言い訳しないから」 「えっ!」 「グラウンド50周かな〜」 「ううう」 かくして、不二に首根っこを掴まれたまま菊丸は部室に連れて行かれた。 昨日泣いた子がもう笑ってるとはこのことか? 朝練習で隠しもせず思いっきり漂わせていた負のオーラはどこへやら、アクロバティック全開でプレイする菊丸を眺めるレギュラは安心している者もいれば、それでこそ気分屋!と変に感心している者もいる。 ラリー相手の桃城が『嬉しそうっスね、何かあったんスか?』と数メートル先から尋ねても、菊丸ビームでノリノリである。 「ホ〜イ、もう一丁!」 『残念無念また来週〜!』 決め台詞とともに、思いっきりスマッシュの体制。 瞬時に反応して右に飛び構えた桃城だったが、放たれたボールは本人同様どこに飛んでくるかわからない。 スマッシュかと思われたそれは、ネットぎりぎりにポトンと落ちた。 「うわっ、マジっスか!?」 てっきり強力なスマッシュが来ると判断したが、予想を裏切り黄色いボールは軽くバウンドする。 咄嗟に前に走るが間に合わず、ラスト一球は審判を勤める乾のもとへ転がっていった。 「へへ〜ん、どうだ!」 ビシッとラケットを突きつけ笑う菊丸に、桃城はホールドアップして乾へ近寄ると負けた者に課せられるメニュを渡されその場で腕立てを始めた。 ぱぱっと終わらせ自分のドリンクをつかむと一気に飲み干す。 「はぁ〜…死ぬかと思った」 「ちゃんとやったか、ご苦労ご苦労」 「英二先輩がまさかあそこでドロップ打つなんて、誰も思わないっス」 不二と手塚にバトンタッチし、菊丸も乾と桃城のいる場に戻る。 ほぼ初めてといっていい菊丸のプレイに、乾はノートの菊丸覧を更新するべくペンを走らせるが、問い掛けることも忘れない。 「珍しいね、菊丸がドロップショット打つのって」 「そうっスよ!ドロップは地味だとか言ってたのに!!」 負けたのも悔しいが、勝った相手の決め球が『やらない』と公言していたショットだったのに納得いかないようだ。 そんな桃城に 『そうだったっけ?』 あっけらかんと告げるとラケットをくるくる器用に回す。 「手塚のマネしただけだよ〜ん」 真似!? 菊丸がドロップを打つなんて、殆ど見たことがない。 たまにジョークで打ったりするが、練習中、特に負けた者には罰として休憩前の乾考案の小運動がかかっている大事なゲームで馴染まないショットはまず打たないし、シングルスだと予測不能な攻撃中心でスピーディに試合を決める菊丸が、ラストにスマッシュではなくドロップするなんて、かなりのデータを誇る乾でも予想していなかったことだ。 「『ドロップショットでゲームを終わらせる奴は男じゃねぇ』とか言ってたじゃないっスか!」 「誰が?」 「英二先輩っス!まえ昼休みにゲームしたときに」 「そんな事、言ったっけ?」 「うわっ、忘れてる!!」 言ってましたよね! 乾に詰め寄る桃城に、覚えのない菊丸は『にゃはは』と笑っている。 「確かにそんなことを言ってたね」 「っスよね!」 「ドロップショットで桃城が勝った時にね」 「俺に『男ならスマッシュで決めろ』って説教したじゃないっスか」 「あれ〜そうだっけか?」 「そのくせスマッシュ打ったら『先輩を労われ』とか言うし!!」 「にゃははは」 「にゃははじゃないっス!」 「元気が有り余ってるようだな」 いつのまに終わったのか、一汗流した手塚と不二が戻ってきた。 乾の差し出すメニュを受け取ったのは… なんと手塚だった。 これには乾含む全員が驚く。 「うっそ!不二、勝ったの!?」 タオルで汗を拭く不二に駆け寄る菊丸も、一段と声が大きくなる。 予想外のショットに文句たれていた桃城も、ポカンと柔らかい笑みの三年を見つめ、菊丸と桃城との会話でまったくゲームを見ていなかった乾は、ペンを握りしめ激しく後悔する。 「油断したね」 にこり笑うと、手塚用罰メニュである腹筋を終えた敗者にスポーツドリンクを渡す。 無言で受け取り表情を崩さず口をつける手塚だが、内心ではかなり驚いている。 「ちょっと本気出しちゃった」 あれがちょっとか!? 先ほどのプレイを思い出し、手塚は軽く頭を振った。 いくら自分がパワーアングルをつけていて不二は外していても、いつもなら軽く流すくらいだしお互いめったに本気を出さない。 それに乾考案の罰のかかった勝負といえど不二が真面目にやるとは思いもよらないことだ。 たかが1ゲーム、されど1ゲーム。 プレイする前から足に何か違和感があったが、誰も見てないからといって惜しみなくカウンタをかます不二に驚いているうちにゲームが終わった。 しかも、最後に決められたのは自分の専売特許・ドロップショットである。 「不二先輩もドロップっスか!?」 これには桃城も驚かずにはいられない。 菊丸もそうだが、不二のドロップというのもあまり無い光景だからだ。 「英二も打ってたね」 ちょっと驚いたよ。 朗らかに笑う不二だが、そんなまったく驚いていない顔で言われても… 改めて、三年の先輩のすごさを感じた桃城だった。 「不二…」 外れかかったパワーアングルを直そうとジャージを捲くった手塚は、違和感の正体を知る。 ゲームの前に不二が外し、自分はつけていたもの。 それはわかる。 だが、しかし。 「はい、タオル」 わざわざ持ってきてくれた不二だが、しゃがんだまま固まっている手塚を見て少し目を開けた。 パワーアングル。 現在レギュラ全員に装着されているもの。 入っている鉛は5枚。 しかし。 「気づかずに着けちゃったから、驚いたよ」 なんて言ってるが、確信犯だ。 「入れたのはお前か…?」 全員の足にはまっている鉛は5枚。 自分のアングルに入ってる鉛は、 「手塚の足を鍛えようと思って」 「おい…」 違和感を感じつつも10枚の鉛がおさまっている事に気づかなかった自分も自分だが、黙って入れる不二も不二だ。 手塚の足に気づいてない三人はドロップショット談義で花を咲かせていたが、そうこうしているうちに最後のレギュラが休憩中のコートに足を踏み入れた。 「チィーッス」 手塚と不二の横を通り過ぎると、テニスバッグを壁に立てかけアップを始めた。 図書委員の仕事で遅れると連絡を受けているので、手塚はグラウンドを走らせることもない。 普段と何ら変わりのない越前に、『さすが』と菊丸との違いに感心する不二だが、チラリ向ける視線はどこか探っているかのようだ。 「…何っスか?」 視線に気づき、柔軟しながら問う越前だが、自分を見つめる三年は軽く首を振るだけで理由を教えてはくれない。 越前から視線をはずし、今度はウズウズしているであろう親友へその目を向けた。 が、 ドロップショット談義を繰り広げていた三人に、いつのまにか残りの河村、大石、海堂が加わり話題がスマッシュに変わっていた。 (英二…) 部内一を誇る動体視力の持ち主が、肝心な時にその力を発揮しない。 入ってきた越前に飛んでくると思いきや、存在すら気づいていないようだ。 まぁ、菊丸の前に河村が立っているため、見えないのかもしれないが。 「でも、やっぱスマッシュっスよ!」 「いいやスマッシュ返しの方がかっこいい!」 「んな事言っても、英二先輩出来ないじゃないっスか」 「ボレーもいいんじゃないか?」 「それも言えてる!大石のムーンボレーには惚れる!!」 「あはは、英二のアクロバットにはかなわないよ」 「まぁね〜」 「あ〜ハイハイ、先輩たちがラブラブなのはわかったっス」 褒めあう三年黄金ペアを前に桃城はやや呆れ顔だが、視界の端に入った小さな体に『おっ!』と声をあげて近寄った。 「やっと来たな、こいつ」 「痛いっス」 帽子の上からグリグリ拳を当てる桃城に迷惑そうだが、そんな後輩を気にすることもなく先ほどの珍事を言って聞かせる。 「おい、聞けよ!さっき英二先輩とラリーしたんだけどよ」 「負けたんスか?」 「くっ…」 出てきた三年の名前に一瞬ピクンと柔軟する体が止まったが、すぐさま手を動かし何でもないかのようにアップを続ける。 「まぁ、聞け。負けたけどよ、決め球なんだったと思う?」 スバリ言い当てた後輩に少し落ち込んだが、決め球までは当てられないだろうと気分を浮上させる。 「ボレーっスか?」 適当に言ってみた。 ネットプレー中心の先輩が、シングルスのラリーですぐ前に出てくるのは今までの練習で確認済みだ。 越前の最もな予想に、桃城は嬉々として『ハッズレ』と後輩の額にデコピンをくらわす。 「ドロップショットだぜ」 「ドロップ?」 「信じらんねーだろ?英二先輩がドロップって」 「…」 「お前だって聞いただろ?先輩が『ドロップで決める奴は男じゃない』って豪語してたの」 「桃先輩」 ちらっと近くで休む部長に視線を向けた越前に、はっとして口を閉ざす桃城だったが手塚の耳にはバッチリ入ったらしい。 少し眉を寄せた手塚に、ブンブン首を振りながら『俺じゃないっス、英二先輩っス!』叫びながら張本人のいる輪の中に戻っていった。 「…っしと、アップ終わり」 立ち上がると、ラケットを左手に握り黄色いボールを3つほどジャージのポケットに突っ込んだ。 ラリーの相手が欲しかったが、ピョンピョン跳ねた髪の三年のいる輪に声をかけるのも嫌だし、離れた場所で休んでいるとはいえ部長と不二に頼むのも気が進まない。 桃城あたりが丁度いいと思っていたのに、部長に睨まれてそそくさと逃げてしまった。 どうしようか決めかねていると、一際大きな声が聞こえてきた。 「じゃあ勝負っス」 「望むところだ」 「負けたらモスっスよ?」 「とうぜ〜ん!ジュースとポテト付きだぞ」 「え…それはちょっと」 「あっれ〜?負けないんじゃなかったっけ?」 「わっかりましたよ!!バーガー2つっスからね!」 「よしきた!」 「部活終わったらモスで金払わせてやるっス」 「それは俺のセリフだよ〜ん」 各々ラケットを掴むと、コートに入っていく。 どうやら話の流れで1ゲームすることになったらしい。 残りの休憩時間を使ってなので1ゲームしかしないようだが、他の部員やレギュラの目は一斉に二人に注目している。 約1人を除いて。 二人のゲームのせいで、自分以外の部員は全員Aコートに注目している。 となると、越前のラリーに付き合ってくれる相手候補が完全に消えたことを意味しており… (モス…) あの先輩と帰るようになっても、めったに行かないファーストフード。 他の店より割高なため、部活後中学生が寄る店としてはいただけない。 それが、二人の賭けの対象。 朝練での意気消沈とした雰囲気ではどこへやら、コートで飛び跳ねる菊丸は普段以上に上機嫌で桃城と高度なラリーを続けている。 ・・・・・・・。 なんだか、すごくムカついた。 グラウンド50周を覚悟で、ラケットを右手に持ち替えポケットから黄色いボールを一つ出す。 自分の心とは正反対に晴れ渡る空に軽くトスを上げると、数十メートル離れた位置を狙って思いっきり右手を振り下ろす。 綺麗に弧を描いたボールは、ポイントを決めて喜んでいる三年の足元でバウンドすると、驚く彼の顔面めがけて跳ね上がった。 「うわっ!」 手を出しボールを掴んだ菊丸は咄嗟のことに驚き、勝負に水を挿した犯人の文句を言おうとしたが、こんな跳ね方をするサーブを打つ人物は一人しか思いつかない。 「おチビちゃん?」 ボールが飛んできた方向に目を向けるが… 「…?」 視線の先には見慣れたテニスバッグが立てかけてあるだけで、肝心の本人がいなかった。 |