あの人はオレにとっては知らない人。 この春、初めて会ったただの、先輩。 同じ部活で、全国に行ったこともある黄金ペアの片割れで。 アクロバティックプレーが得意な、ちょっと猫みたいな動きをする……。 人懐こくって、誰にでも愛想良くて、能天気で明るくて、皆から好かれている。 ただの、テニス部レギュラー。 で。 変な先輩 ただ、それだけ……。 |
遠い約束 |
第二話 全ては誤解とすれ違いの果てに…… |
「……え? 菊丸先輩、好きな子いるんですか?」 「……みてえだぜ。最近、あんまり聞かないけどな。前はよく話してたっけ」 「へえ……ウチの学校の娘?」 「いーや。何か違うみてえだな。随分会ってねえみたいだし」 詳しいことは、殆ど聞いてないらしく、桃城はそう言いながら、自転車のペダルを必死に踏んでいた。 ――校内ランキング戦を見事勝ち抜け、レギュラーの座を手に入れたリョーマは、地区大会で、この先輩とダブルスを組むと言う経験をしていた。 自分がダブルスをするなんて、想像もしていなかったが、それからと言う訳ではないが、帰りに待ち合わせをして、こうして送って貰うことが多くなった。 ――後ろのステップに立ちながら、リョーマは気のなさそうな返事を返す。 「……ふーん」 「でも、全然会ってないのに、なんでそこまで好きで居られるんだろうな? オレなら、会えない相手を思っててもダメだと思うけど」 「……」 桃城の言葉に、その肩を掴む手に力がこもる。 「それは、桃先輩が、誰かを好きって本気で思ったことないからっすよ」 「え?」 普段クールなリョーマが、反論してくるとは思ってなかったらしく、桃城は不思議そうに問い返した。 「お前が、んなこと言うなんてな。もしかして、お前にも好きな奴いるのか?」 「……桃先輩には関係ないっす」 「身も蓋もねえな……。身も蓋もねえよ。もちっと他に言いようねえか?」 「……でも、桃先輩の言うことも判る」 「は?」 「……離れていたら、忘れられる可能性もあるから……。忘れられたら、思い出して貰えなかったら……。好きで居たことが全て、虚しい気持ちになる――」 「越前?」 いつにない、リョーマのまじめな科白に桃城も、不思議そうにリョーマの雰囲気を探っていた。 「でも、忘れてるだけだろう? ちゃんと言えば、思い出すかもしれねえじゃねえ?」 「……思い出して……それでどうしたんだって聞かれたら? それまで忘れて居られたことっすよ? きっと思い出してもたいした感慨もないことだし……。……思い出にさえなってなかったら……」 悔しくて悲しくて、心が死にそうな気持ちになる。 「忘れられてたのか? もしかして……」 「……さあね」 「そこまで言ったんだから、正直に言っちまえよ」 「……桃先輩には、関係ないっす」 決まり文句を口にして、リョーマはそれ以上何も語らなかった。 別れ際、桃城は自転車から降りたリョーマの腕を引っ張って、 「お前でも臆病になることあるんだな。でも、まずは当たってみねえと、何も見えて来ねえんじゃねえの?」 「……桃先輩」 「傷付くのは、誰だってヤだけどな。でも……逃げたまんまじゃ、答えも見つからず、前にも行けねえと思うぜ?」 そんなことは判っていた。 今の状態で、知らない振りをして、ただの先輩と後輩として仲良くして行くのにも限界を感じることがある。 言ってしまえば楽になれるだろうか? 忘れてるのに? 思い出してくれれば、あの頃のように過ごせるかも知れない。 今まで、忘れていたのに? 過去に拘る己が、あまりにも浅はかで情けなかった。 「エージ……オレを見つけてくれるって言ったのに……なんで?」 小さく呟いて、リョーマは自分の部屋のある二階へと駆け上がった。 ☆ ☆ ☆ 「おっちびー!」 昇降口のある一階の端から、端にいる自分に向けて、英二が大声を張り上げて、呼んでいた。 多少なりとも赤面しつつ、リョーマは歩く歩調を緩めず速めず、そのまま、歩いている。 「もう! おチビノリ悪い〜♪ ね、一緒に部活行こ!」 「……って言うか……このまま、靴を履き替えたら、必然的に同じ方向に向かうんだから、改めて言うことないんじゃないっすか?」 「……おチビちゃん、機嫌悪い?」 「……別に……」 いつものように、軽くあしらいつつ、部室に向かい、ふと、いつも英二と一緒にいるもう一人の先輩の姿がないことに気がついた。 「あれ? 不二先輩は?」 「……不二は、教師に用事があるって、職員室に行ってるけど?」 英二の口調が、どこかつまらなさそうなものになっていて、リョーマは少しだけ首を傾げた。 「――不二のこと気になるの?」 「は?」 何を言い出すんだこの人は? とリョーマは少しだけ間抜けた問いかけをしてしまった。 「……っ! あ、ごめん……おチビちゃんには、関係ないんだった……」 「先輩?」 「あはは……ごめん、忘れて」 英二はそう言って、少し歩調を早める。 「ちーっす! 英二先輩。よう! 越前」 「やっほーい! 桃」 「チーッス……」 昨日の今日で、リョーマは少しだけばつが悪そうに、軽く頭を下げて、桃城から目を逸らした。 「なーんか、越前。目が赤くねえか?」 「……え?」 「寝不足? めっずらしいじゃん」 茶化すように言う桃城に、リョーマはムッとして、顔を上げると、思いの外気遣いが見える視線に、また、俯いてしまった。 「授業中には、寝てたんすけどね」 「意味ねえだろう? んなんで大丈夫か?」 「大丈夫っすよ。そんなにヤワじゃないんで」 「……ちなみに飯は食ってんだろうな? 寝不足で飯食ってなかったら、テキメン倒れるぜ」 「ちゃんと食ってますよ。桃先輩ほどは、食えないっすけどね」 「……この前はいい勝負だったじゃん」 「……桃先輩が人のこと煽るから」 「乗せられたのは、お前だろう?」 「むぅ……仲良いね、二人とも」 ポツンと聞こえた声に、桃城が慌てたように振り返った。 「え? そうっすか?」 「全然、仲良くないっすよ」 ほぼ、同時に発言して、ますます英二がふて腐れる。 さっきまで機嫌が良かったはずの英二の態度に、リョーマはまた首を傾げた。 ☆ ☆ ☆ 「何か、機嫌悪いね」 部活が終了して、着替えながら、不二がベンチでボーッと座っている英二に向かって言った。 「……別に〜そんなことないよ?」 「……僕にそんな嘘が通用すると思ってるの?」 不二の静かな言葉に、英二が軽く息を飲んだ。 コートの整備と後片付けを終えて、リョーマは他の一年より、少し遅れて部室に向った。 狭い部室で、ひしめき合いながら着替えるのもイヤだなと、水飲み場近くの木陰に座って、部室から出て来る部員たちを、見るとはなしに見つめていた。 大多数が着替えて部室を後にした頃に、リョーマは部室のドアノブに手をかけて、開けようとして。 不二と英二のやり取りに、動きを止めた。 「別に嘘つく気も、誤魔化す気もないんだけどね」 英二は、そう言って深く大きく溜息をついた。 「そうなの? 目いっぱい誤魔化そうとしてたように見えたけど」 「……それは、不二の気のせい」 軽く苦笑を交えて英二が言い、少しだけ声のトーンを落として、自嘲するような口調で言った。 「なんか……なんかさ、おチビが他の誰かと仲良くしてると、苛々してくんだよね」 「……やっぱり、それが原因なんだ」 「やっぱりって、判ってたの?」 「何となく。だって、英二が苛々してるなーって視線を辿ってみたら、越前くんが桃と話してたり、手塚と話してたりしてたからね」 「……バレバレ?」 「そう、バレバレ」 「でも、不二とおチビちゃんが話してるの見ても、苛つく……。何でかな……ってずっと考えてた」 ドアノブを握ったまま、入るに入れなくなって、リョーマはどうしたものかと考えていた。 しかも、英二の言葉に、何だか頬が熱くなっているのが判る。 彼は自分を知ってるあのエージではないと。 自分の想いは、きっと彼には届かない。 認めて貰えないと。 諦めるつもりだった。 だって、同性と言う難関がある。 自分の気持ちを、英二が認めてくれるか判らない。 紛れもなく、恋愛感情だと……リョーマには、判っていたから―― 桃城に諭されても、今の関係を正面から、壊すことなど出来ないと。 考えていたから……。 なのに……。 心が騒ぐ。 今のオレを……過去に関係なくでも、もし、気に入って貰えたら。 好きになって貰えたら。 そうしたら……。 忘れてたことには目を瞑って、自分の想いを告げても良いかも知れない。 それで、折りを見て8年前のことを告げたら……。 笑い話に出来るかもしれない。 どんな経緯を経ても、二人の気持ちが同じならば……。 「……越前くんのこと、好き……ってことじゃないの?」 「……オレもそうかと思ったんだ……。でも……オレは……」 そこで、英二は一度言葉を切り、 「好きな子ちゃんといるから……。で、思い当たったんだ」 「……何に?」 「おチビとその子、ソックリなんだよ」 目の前にあった、信じられる何もかもが……消え失せる感覚。 自分が立っている場所も。 何を考えていたのかも。 期待していた自分が、一層憐れで愚かで、惨めだった。 聞いていたではないか。 英二には好きな人がいると。 何を期待していた? ――ダメだ。 こんな自分はダメだ。 要らない。 こんな……弱い自分は……。 忘れていたら良かった。 何であんな子供の頃の約束を、ずっと守っていたんだろう。 連絡を取ることもせず、会うこともなかった相手を、何でここまで想い続けていたんだろう。 自分を憶えていない相手を、自分はまだ、想い続けていた…… その事実に打ちのめされる。 再会して……ただの先輩後輩として接していても、自分の想いは真っ直ぐ英二に向かっていた。 その事実に蓋をして、見ない振りをしていたのは、他でもない自分自身だ。 「越前?」 かけられた声に、リョーマは慌てたように振り向いた。 「どうしたんだ?」 まだ、着替えてもいない副部長の声に、リョーマは首を横に振った。 「……越前?」 「何でも……ないっす」 「でも、真っ青だぞ?」 「……本当に何でもないっす……。あの……お願いがあるんすけど」 「何だ?」 リョーマは俯いたまま、願いを大石に訴えた。 不思議そうな表情のまま、大石は頷き、部室へと入って行く。 リョーマは先に、正門に向かって駆け出した。 ☆ ☆ ☆ 正門で、塀に凭れていると自分のテニスバッグが目の前に出て来て、リョーマはハッとしたようにそれを受け取った。 「何で、大石に頼んだりしたの?」 静かな声に。 弾かれたように振り返る。 「な、んで?」 「……無理に大石に代わってもらったの。だって、おチビが部室に入って来なかったの、オレのせいなんでしょ?」 「……違います」 「じゃあ、何で入って来なかったの? 不二がいたから? 違うよね? オレが……」 「関係ありません!!」 テニスバッグを肩に担いで、そのまま後も見ずに歩き出す。 「おチビ!」 「……あんたがどう思ってようと、オレには関係ない。自惚れるのも大概にしたら?」 止まらない。 「……っ!」 愕然と、目を見開く英二の表情が痛かった。 誰か、止めて欲しい。 誰でも良いから、これ以上この人を傷付けないように……。 オレの声を封じて欲しい! だが、現実に止める者は何もなく、リョーマは言葉を続けていた。 「……ろくに会いもしなかった相手を、未だ好きだなんて……。相手はあんたのこと、忘れてるかも知れないのに……」 「っ!?」 違う……。 現に、英二はろくに会ってもない、少女のことをいまだに想ってるんだ。 相手だって、想ってる可能性だって十分あるのに……。 そう。 自分だって……。 ずっとずっと、英二のことを想って来た。 ろくに会うことも叶わなかったのに。 それでも、相手を想って来たのだ。 こんなこと、思ってない。 言いたくない。 傷付けてしまうから―― 誰よりも大好きな人を……。 自分の言葉で、傷付けてしまうから!! 「目を覚ましたら? 今頃、その子だって傍にいる誰かを好きになって、あんたのことなんか、これっぽっちも憶えてないよ」 「お前に何が判る?」 今までに聞いたことない、静かな声音で。 英二はそう言って、リョーマを睨みつけた。 その視線に、リョーマは一瞬だけ怯んで後退る。 「オレとあの子のことで、越前にとやかく言って欲しくないな。お前は、あの子のこと何も知らないんだから!!」 自分も英二を傷付けたのに、英二の言葉に傷付いている自分を自覚する。 なんて浅はかな、愚かな自分……。 情けない。 要らない。 こんな自分は、消えてなくなればいい。 そう、思うのに……。 口から出たのは、自分でも予想もしていなかった言葉だった。 「……つき」 「何?」 「エージの嘘つき……。オレとの約束は、破ったのに、他の子との約束は守るんだ」 「何言って……?」 「オレも……忘れてしまえば良かった!!」 叫ぶなり、リョーマは駆け出した。 「越前!!」 英二の声にも止まらず、ろくに前も見ずに走り出そうとしたリョーマは、前方から来ていたバイクに気付かなかった。 気付いた英二が、声を上げてリョーマの肩を掴むも、それを激しく跳ねつけてリョーマは、バイクのエンジン音にハッとしたように視線を向けた。 「ちっ!」 舌打ちを漏らした英二が、自分のテニスバッグを放り出して、ダイビングしてリョーマを抱き締め、そのまま、道路の反対側にダイブする。 バイクはそのまま、その場を通り過ぎ、遠くから「馬鹿野郎!」の怒声が聞こえて来た。 「あてて……馬鹿野郎はどっちだっての……。おチビ? 大丈夫?」 ぐったりしたまま動かないリョーマに、英二が慌てたように声をかける。 「おチビ? ……越前? 大丈夫か? しっかりしろよ、なあ、越前!」 遠くで、誰かが自分を呼んでる。 でも、いつもの呼び方じゃないんだ。 ねえ、いつもの呼び方で呼んでよ。 それがダメなら……昔の呼び方でも良いから…… もう、叶わない? ……――オレの隣で、笑ってくれないの? でもね。 それでも。 ――オレは……。 「エージ……大好き……」 小さく呟かれた言葉を……英二は、愕然とした表情で聞いていた。 ☆ ☆ ☆ 「何か、あったんすか? 不二先輩」 正門前は部活が終わって帰ろうとしていた生徒が数人、立ち止まって、ざわついていた。 背後からかかった桃城の声に、不二は振り向いて、少しだけ肩を竦めた。 「ああ、たいしたことはなかったみたいだけど。越前と英二がバイクに跳ねられかけたらしい。直接、ぶつかってないみたいだけど」 「え? 怪我とかは……」 「ちょっと擦りむいたぐらいだね。英二は反射神経良いから――。今、大石と二人で、越前を送るために帰ったとこだよ」 不二の言葉に、桃城はホッとしたように苦笑しながら頷いて、ふと、道路の隅に落ちていた手帳に気がついた。 拾い上げて、中を見ると、手帳のカバーの折り返しの部分に入れられた学生証で、英二のものだと判る。 「英二先輩の手帳見たいっす」 「ああ、じゃあ、僕が明日、英二に渡しとくよ」 「お願いします」 手帳を渡して、桃城はそのまま、自転車に乗って帰っていく。 不二は、何気に開いた手帳の……裏面の折り返しに挟まってた写真を見て、目を見開いた。 「なるほどね……。そう言うことだったんだ」 呟いて――。 手帳をポケットにしまうと、不二も自宅に帰るために歩き出していた。 <続く> |